先日、ブログが書けなくなった話を書きました。
このエントリが、はてなのトップページ「きょうのはてなブログ」に掲載され、いつもより多くのブックマークコメントを頂戴しました。
コメントを読むうち、ある言葉を思い出しました。実業家の神保拓也さんが、ラジオで「悩みは一人で抱えず、誰かに話すべき」と話していたことです。
悩みと向き合うときには認知(自分の常識や物の見方)が邪魔をして、自分の思考が堂々めぐりをします。長年かけて作られた認知を、その認知に染まりきっている本人が一人で見直すのは至難の業。だから、悩んだ時は一人で悩もうとしないことが大事です。
(J-WAVE/STEP ONE 2022/4/11 放送)
「認知が自分とまったく同じという人は、この世に一人もいない」という神保さんの言葉通り、コメントもさまざま。そっか、そんな考え方もあるのかと、感じ入りました。正しい・間違いじゃなくて、自分がどう考えるか、何を大事にするか、なんだなと。
悩みは話して(書いて)みるもんですね。悩みすぎて、いつの間にか堂々めぐりしていたことにも気づきませんでした。
いただいたコメントで堂々めぐりから抜け出すと、結局のところ自分がどんなふうに考えているか、わかってきました。
どうやらわたしは、おもろいと思われたいという、不相応な欲望をしっかりと持っているらしいのです。
自分は無欲だと思っていたけど、そうじゃなかった。誰にも読まれなくても、誰にも気に入られなくても、書くことさえできれば満足、じゃなかった。
そもそも、わたしは根っからのお調子者です。誰かと話すとき、どうにか相手を笑わせようと、そればかり考えてる。その一方で、秘密めかした話をえんえんと語り合うのも好き。「おもろがられたい」「秘密めかした話がしたい」はわたしの自然な欲求で、そうやって相手と関係を結ぼうとします。書くのだって、たぶん同じ。
そうはいっても、おもろい文章なんて、どだい無理なお話です。書く才能も技術もなければ、前のエントリで書いたように「クダラナイ人間がどうでもいい話をしているだけ」という自覚だってある。
でも、「おもろがられたい」という気持ちがありながらこの程度なんだったら、なんにも考えず書いたらどんだけひどいもんになるんやと想像すると、不相応な欲望を持つくらいがちょうどいいのかもしれないな、とも思ったりして。
おもろいものを明日いきなり書くことはできないし、そんなの目標にしたら一文字も書けなくなるから、まずは、去年よりは今年、今年よりは来年、よりよいものを書こうと、心持ちだけはそうあろうと、はい。
それから、似ているようで違う、違ってるようで似ているわたしたちの「認知」とやらを、ブログを通じておもろがれるといいな。今は、そう思います。
最後になりましたが、掲載を言及&はげましてくださったネムヒコさん、ありがとうございました!