君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

舞台「メディスン」感想と考察 #5 | わたしたちのメディスン

最後の観劇から、約2週間。
もはや記憶もおぼろではありますが、ジョンの置かれた状況や、終盤~ラストシーンを再考いたしました。

しかしいくら考えても「絶対これ」という答えにたどり着けないのは、これいかに。

観劇から2週間後の感想と考察

注:例によって、内容には記憶違い、勘違い、妄想幻聴が見込まれます。ご留意くださいませ。

ジョン/わたしたち

初日に観劇して以来、わたしはジョンを「かわいそうな過去を持つ、かわいそうな人」と認識していました。

感情を爆発させたジョンが「僕の頭は、僕のじゃなかった」と叫んだとき、「わたしもそうだ」と強く感じたのに、ジョンの「かわいそう性」を再検討しなかった。

知らないうちに「かわいそうなジョン」と自分を、切り分けていた。ジョンと自分たちを切り分ける態度は、今にして思えば、病院のセラピストやスタッフと同じものでした。

(その意味で、床に引かれた白いラインや卓球台は、「ジョン/わたしたち」と切り分けてしまう無意識を、可視化したものと言えます)

ジョンは一見、特殊な状況に置かれた、特殊な人です。でも実は、わたしたしの置かれた状況を体現している存在と言えるかもしれません。

たとえば、ジョンには自由がありません。
精神病院に囚われ、飲みたくもない薬を飲まされ、セラピストの質問にはテンプレート通りの回答が求められる。

そのうえ主人公であるにも関わらず、状況をコントロールできません。
部屋はぐちゃぐちゃ。立ち位置はバミられる。着替えるタイミングも、ドラマセラピー開始タイミングも決められない。大切な台本をあっさり間引かれる。音楽の流れる楽しげなシーンでは、一緒に踊るどころか端っこで傍観する始末。

ジョンの置かれている状況は一見、かなり特殊に見えます。
しかし一方のわたしたちはどうか。

自由な時間なんてほとんどない。やりたくもない仕事をし、上司(クライアント)に求められるリアクションをし、疲れきった体で家事雑事をこなす。やらなければならないタスクは日増しに積み上がり、人生をコントロールしている感覚もなく、囚われているのかどうかを考える暇もない。

人生を変えたいと思う。自由がほしいと思う。だけど一歩も動けない。

ジョンの置かれている状況を普遍的としたとき、ジョンの「時間の認識ができない」症状も、見方を変えれば普遍的と言えるかもしれません。

舞台の終盤、ジョンは自分が青年でなく、実は老年であることに気づきます。入院を余儀なくされている理由がほのめかされるシーンです。

このシーンで、観客ははじめてジョンを「重度の精神病者」と認識します。自分が歳を取ったと何十年も気づかないのは、さすがにやべえぞと。

でも、わたしたちだって似たようなものではないでしょうか。

誰もが、はっと気がついたら中年になっている。人生が一瞬で過ぎ去っていくことに、何度だっておどろく。あと二十年も経って老年にさしかかれば、誰もが驚愕するはずです。ああ、なんという速さだったかと。

つまり「特殊に見えるジョンの状況も、視点を変えたら、わたしたちの置かれた状況とほとんど変わらない」と言えるのではないでしょうか。

ジョンはほんとうに自由を望んでいたのか

ジョンは精神病院に囚われています。
いつかここから出て自由になることを、ジョンは望んでいる。ジョンの言葉からも、自由への希求が読み取れます。

でも、ほんとうにそうでしょうか。ジョンはほんとうに、自由になることを望んでいたのでしょうか。

精神的に囚われることについて、その昔「電波少年」に出演したなすびが、米紙「ロサンゼルス・タイムズ」のインタビューにこう答えています。

そういう状況に置かれると、この環境を変えるより、同じ環境にとどまるほうが安心だと思うようになるんです。そうして、物理的にも精神的にも囚われていきました。

「電波少年」に出演したなすびが米紙に語る「当時の番組は見返せない」 | クーリエ・ジャポン

なすびほどの極限状態におかれた人でも、「ここにいるのは正しい」と思いこんでしまう。

ジョンが同じ精神状態だったとしたら、自由にあこがれながらも、病院にとどまるほうが安心と感じるようになっていたのではないでしょうか。

もしそうなら、終盤でメアリー2に詰めよられ「ここにいるのは正しい」と答えたとき、ジョンは安堵したかもしれません。

心のどこかで、出て行かないですんだことに安堵し、安堵する自分自身に絶望したかもしれない。

あるいは、まだ絶望できる自分を発見したかもしれない。何度も落ちたはずの底に、さらなる底があると気づいたのではないでしょうか。

ほどなくしてジョンは、はげしい錯乱状態に陥ります。台本の台詞を脈絡なく、言葉を切り刻むようにわめき、前後もめちゃくちゃ、最後には絶叫します。

あのときジョンは、底の底に落ちないわけにはいかなかったのかもしれません。他人によってではなく、自分で探し当てた言葉によって。

底の底に到達したジョンは、スピーカーから流れる老人の声に反応し、「これは僕?」とたずねます。青年だと思っていた自分が、実は老人だったと気づく瞬間です。

(なぜそう言いきれるか? 舞台序盤、メアリー2がロブスターのかぶりものを着用している理由について、ジョンは鋭く切り込みました。誰もがあなどっているけれど、実は勘の鋭い聡明な人間だと、ここで伏線を張っていたと考えられます)

事実を知っても取り乱さず、ジョンは「僕は、どのくらいここにいるんだろう」とつぶやきます。

もしかしたらジョンは、無意識下では時間の経過を認識していたのかもしれません。

なすびの言うように「同じ環境にとどまるほうが安心」で「物理的にも精神的にも囚われて」いたから、病院にとどまるために、時間の経過を認識できない症状を発症させていた。そうでなければ、村へ返されるから。

ジョンにとっての「メディスン」

いま、現実を把握したジョンは、病院にとどまる理由を失います。

もはや青年時代の自分に戻ることはできません。自由をとるか、病院にとどまるのかの分岐点で、ジョンは自作の詩を朗読します。

あのとき、詩を朗読したのはなぜか。これまでにない、強い不安にかられたからではないでしょうか。不安を打ち消すために、ジョンはほとんど本能的に詩を朗読した。

なぜならジョンにとってのメディスンは詩、言葉だからです。詩人としての本能が、ジョンに発語させた。精神病者としてでなく純粋な詩人として、ジョンはあの詩を朗読したとは考えられないでしょうか。

ジョンの詩を聞いていると、その詩の風景の中に自分も立っているような、見たこともないのに懐かしいような気持ちになります。

かつてジョンは、森の中で同級生たちから陰湿きわまりないいじめを受けました。そのとき、ジョンの内部にある豊かな森は破壊されてしまったのでしょう。

破壊された森を、ジョンはひとりで、時間をかけて修復してきた。おそらくは詩作によって。

ジョンは誰かのためでなく、自分のために詩を作ってきた。自分のために作った詩を、誰かの前で朗読し、あたたかな拍手を受けたのは、もしかしたら生まれてはじめての体験だったかもしれません。

それがどれほど癒され、生きる力になるか。

黙って頭を下げるジョンの姿に胸を打たれたのは、誰かに受け入れてもらえる感動を、わたしたちも知っているからだと思います。

再び、ラストシーン

生きていくために、ジョンには詩が必要です。そして、誰かにそばにいてほしいと願う気持ちも、誰かを求める勇気も、同じくらい必要だった。

ジョンにとってのメディスンが詩だとしても、それだけでは生きていけない。
そのことに気づいたジョンは、「わたしにいてほしい、ジョン?」とメアリー1に聞かれたとき、すがるように「うん。お願い、メアリー」と答えます。

二人は椅子を並べてすわり、ジョンはメアリーの手に触れます。はじめてフィジカルに誰かを求めるシーンです。

メアリーはその手を両手で包み、ジョンを受け入れる。二人はまっすぐ前を向き、一瞬のような、永遠のような時間を過ごします。

ラストシーンで、たとえばジョンが一人だったとしても、物語として破綻はしません。でも脚本を書いたエンダ・ウォルシュは二人にすわらせた。ラストシーンにおけるメアリー1の存在は、言葉にすると陳腐だけれど、世界の美しさだとか、世界にはまだ何かが残されていることを教えてくれているようです。

わたしたちは、たしかに無力だ。人生をコントロールできず、まるで囚人のようだと感じるときもある。でもそれだけじゃない。世界には、まだ美しいものが残されている、と。

わたしたちの「メディスン」

舞台「メディスン」を観劇できたことは、ほんとうに幸せでした。

こんなにも深くひとつの作品について考えたことは今までになく、その意味でもすばらしい体験になりました。

とはいえ「メディスン」は難解作ですから、読解力のないわたしの理解度は、十全とはほど遠いと思います。

でも、いったん世に出たら、すべての作品は観客のものになります。
十全には理解できなくても、作品が「わたしたちのメディスン」になるほうが、画一的な答えよりも価値があるのではないか。そう愚考いたします。

 

それにしてもシアタートラムは小さかった。申し訳ないくらい小さかった。そのうえチケット代がK-POPライブの約半値でありました。ありがたくて、もったいなくて、ひれふす思いです。

生きているうちに「メディスン」を観られてよかった。ありがとうございました。

 

 

ぜんぜん関係ないけど、来月にも圭くんに会えるのはうれしくてたのしみなのだけど、それとは別に、ジョンにはもう二度と会えないんだ、と思うととてもさみしい。

翌日、ジョンはいつもの質問になんて答えたんだろうって、このごろずっと考えています。