君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

舞台「メディスン」感想と考察 #4 | Don't think. Feel.

舞台「メディスン」の4回目を観た。

これが最後なんだから、ゴチャゴチャ考えずリラックスして観よう。そう肝に銘じて臨んだのに、とてもリラックスなんてできなかった。

リラックスできないのは、新たな発見があるから。発見があると解釈の更新を余儀なくされ、ゴチャゴチャ考えることになる。

何回観たら、発見はなくなるんだろう。ずっとなくならないかもしれない。「ずっとなくならないじゃないか」ってぼやきながら、何回でも観たかった。

とにもかくにも、しあわせな一ヶ月でありました。

メディスン」観劇4回目の考察

観劇4回目の新たな発見や、考察(のようなもの)をまとめました。

例によって、記憶違い・勘違いが見込まれます。ご了承ください。

全身グレーのジョン・ケイン

ジョンの靴下が、グレーだった(新発見)。

黒でも白でもない、全身グレーのジョン・ケイン。全身グレーなのは、ジョンの主体性のなさ、存在の曖昧さを示している。

つまり、投薬によってジョンが曖昧な状態に置かれていること、過去と現在が曖昧模糊としていることの暗示だと思う。

ジョンは中盤で白いシャツと濃いグレーのスラックスに着替える。曖昧な状態を脱却し、現実を知る予言ともとれる。
(二つの色を混ぜたら、やっぱりパジャマと同じ色になるのが気になるところ)

色といえば、「メディスン」で目につく色は限られている。

グレー(ジョンのパジャマ、靴下、スラックス)、
白(ジョンの肌とシャツとスリッパ、雪)、
黒(窓の外の闇、メアリーズのTシャツ)、
赤(ベビージョンの血、セイラのワンピース、メアリー2のロブスター)。

ジョンが身につけるのは、すべて無色彩。だから血やワンピースの赤が、鮮烈な印象を残す。

そういえば、パーティの残骸はみんなカラフルだった。
プラスチックのコップ、風船、テーブルクロス、ラックにかかった派手な服、「Congratulations!」の旗。
ジョンの生きる世界とは別世界みたいに、みんなカラフル。

ちなみにジョンのおパンツは、青と白のいたいけなギンガムチェックでした(たしか)。

スピーカーの位置

前方の席では気づいても、後方だと気づかない仕掛けも、あるような気がする。

そのひとつがスピーカー。

「今日の調子はどうですか?」の声は常に天井スピーカーから流れ、ジョンの声は都度スピーカーが変わる。
1回目が(観客席から見て)右手、2回目が左手、老人ジョンは左手だったと記憶している。

神の声のごとくジョンを支配する存在と、その下で定まらぬジョンの意識。そんな構図だろうか。

メアリーズのTシャツ

前方で気づいても、後方だと気づかない仕掛けパート2。

二人のメアリーが、違うTシャツを着ていた。

これまで気づかなかったのは、観客でわたしだけかもしれない。いったい何を観ていたんだろう(ジョンです)。

Tシャツはそれぞれ、メアリー1「レ・ミゼラブル」、メアリー2「ウィキッド」。

メアリー1の「レ・ミゼラブル」については、ここはもうシンプルに、無理やりに、「ジャン・ヴァルジャン = メアリー1」「コゼット = ジョン」を暗示している、としたい。

メアリー2の「ウィキッド」は「悪い魔女/善い魔女」が登場する、劇団四季のミュージカル。

これはミスリードではないかと思う。正反対のメアリー二人を「グッドメアリー/バッドメアリー」と認識させるための。

そうではなくて、メアリー2自身の中に「グッドメアリー/バッドメアリー」が存在している。あなたやわたしのように、メアリー2も矛盾と葛藤をかかえた人間なんだよ、と説明しているのだと思う。

ドラマセラピーは、セラピーになるのか問題

ジョンは年一回のドラマセラピーを心待ちにしていた。

自分の物語を俳優が演じてくれる、以上に、自分の話に耳をかたむけてくれる機会が、うれしくてたまらない。

台本をそっと胸に抱きしめ、始まる直前にはそわそわと落ち着きがなく、プレゼントを開ける瞬間の子どもみたい。

それが一転、自分の物語を語りはじめたとたん、ジョンは落ち着いた「語り口調」になる。何回も(もしかしたら何十回も)経験があるからか、語りに淀みはない。

どんなに悲惨でも、トラウマを語るのは、セラピーになる。
序盤だけをみると、そんなふうに納得してしまいそうになる。けれどもストーリーが進むにつれ、ジョンはどんどん傷つき、最後はボロボロになる。

どこからセラピーでなくなったんだろう。

最初から、ジョンが持ちこんだ衣装(シャツとスラックスと革靴)に着替えさえてもらえなかったところから、微妙な亀裂は生じていた。

それからメアリー2が「ここは削らない?」と朗読中のジョンに割って入る。「ここは重要じゃないから」と。メアリー2の言葉にジョンは傷つき、反論もできない。

些細な、小さな無視が、ジョンを傷つける。
自分が大切にしているものを、メアリー2は同じレベルで扱ってくれない。汚い言葉を使いたくないジョンは、背を向けて耐える。

ジョンはこうして、ことあるごとに耐えてきた。だから過去のトラウマをみずから演じ、感情が強く揺さぶられたとき、爆発を起こす。

あの爆発は、セラピーになりうるんだろうか。ジョンは毎年、あんなふうに爆発したんだろうか。

フィリップの罠

13歳のジョンは、フィリップという吃音持ちの同級生と森へ出かける。

フィリップとの友情を育むために、好きな子の嘘話を繰り広げてしまうジョン。そこへ村のいじめっ子どもがやってきて、ジョンに「脱がないと殺す」などと迫る。

フィリップがなぜジョンを罠にはめなくてはいけなかったのか。最初は疑問に思わなかった。
好きなクルマがフェラーリ250GT(だっけ?)とのたまう、いけ好かないヤツだし、もともとそういう人間なんだろうと思った。

(関係ないけどフェラーリ250GTは60年代のクルマで、エンダ・ウォルシュが誕生した67年には生産されていない。エンダさんが長じたころは、むしろ250GTの流れを汲む365GTBが「あこがれ」の対象だったのではなかろうか。そこをあえて「250GT」とか言っちゃうフィリップはやっぱりいけ好かない。日本でいうと「やっぱGT-RはR34型だよね」とか言うイメージでしょうか)

フィリップは吃音を持っている。ジョンをいじめなければ、まっ先にターゲットにされるのは誰なのか、身をもって知っている。

弱者がより弱い者を虐げるのは、いじめの基本構造だ。だからフィリップは、すすんでジョンを罠にはめる。心を開かせ、安心させて、叩きのめす。

ジョンは、フィリップのようにうまく立ち回れない。復讐など思いもつかず、ひたすら自分を責める。フィリップに語った嘘話を夢に見、目覚めては吐く。そして痩せる。

「僕が他の人と違うから、いじめられる」とジョンは語っただろうか。
より弱い人間を虐げられない、幼児のような優しい心根を持つジョンはたしかに、「他の人と違う」。

フィリップだけでなく、人は誰でもダークサイドを持っている。だけどジョンは持てなかった。始まりの始まりは、そのくらいの違いだったのかもしれない。

メアリーズの表情

4回目にしてようやく、メアリーズに微妙な表情に気づいた。今まで何をわたしは観てきたのかと(ジョンです)、ショックを受けた。

ジョンの反応ばかりを目で追い、メアリーズの表情の変化を見逃していた。まったく自分のミーハー根性が呪わしい。

二人のメアリーは(観客にしか見えないように)苦しそうな表情を見せていた。

メアリー1はジョンの親父役を演じて以降、ちょくちょくつらそうにする。ジョンに同情し、少しずつ心を寄せていくのが見てとれる。
意外だったのが、ケンタウロスを全力で演じたあと、「終わり」とメアリー2に告げられたあとの表情。なぜか悲しげ(のように見えた)。

特筆すべきは終盤のメアリー2。
ジョンに「そうだ、正しい」とほとんど無理やり言わせたあと、メアリー2はクライアント(病院の職員?)に完了報告の電話をかける。

このときの表情がすごかった。命をかけて涙をこらえているような表情。

電話を切ったあと、メアリー2はさっと指で涙を拭うしぐさを見せる。

今まで何をわたしは観て(略)

詩の朗読

ラストシーン間際、ジョンは残酷な事実を知る。

自分がじつは老人だったこと。いまの青年の姿が、セルフイメージだったこと。

そのうえ、自分の物語を「誰も聞いていなかった」と気づく。どんなにかショックで、心細かったろうと思う。

それからジョンは、おもむろに詩を朗読する。廃墟にかそけく咲く花みたいな、悲しいくらいけなげな詩。

ジョンの詩を、しんとした心持ちで聞いていたとき、あることに気づいて愕然とした。

いや、ちょっと待って。
あんた、ついさっき自分がじじいだって知ったよね。それで、なんで詩なんか読めるの。
腹が立たないの。病院が憎くないの。人生が失われたと知ったあとに、どうして愛の詩なんか読めるの。

ジョンがどんな思いをかかえて詩を読んでいるかと思ったらぐさりときて、もうジョンの詩っていうか、ジョンが詩みたいに見えた。

朗読のあと、メアリー1がぱち、ぱち、とゆっくり手を叩く。ジョンは深々と頭を下げる。

ジョンがかわいそうで、いとおしくて、メアリー1だけでなく、誰もがたまらない気持ちになっていたと思う。

ラストシーンのこと 〈Don't think. Feel.

ラストシーンをどのように受け止めるべきか、ずっと悩んできた。
観るたびに印象が違うのもあって、つい考えこんでしまう。

あれこれ考えはじめたとき、中盤でメアリー1が「考えたんじゃない、感じたの」と叫んだのをふと思い出した。
もしかしたら「燃えよドラゴン」的なあの台詞が、「メディスン」の肝だったのかもしれない。

考えてはいけない。このあと二人はどうなるとか、ジョンは病院を出られるかとか、そんなことをいま、考えてはいけない。
ラストシーンだけは、ゴチャゴチャ考えずに、ジョンの感じている愛を、一緒に感じることが求められているんじゃないか。

そんな思いで見ていたら、ジョンとメアリー1の視線が重ならないことに気づいた。

二人は、椅子を並べてすわる。ジョンは前を向いたまま、腕をのばしてメアリーの手にそっと触れる。
メアリーはその手を両手で包む。ジョンはたしかめるようにメアリーを見、また前を向く。メアリーはそんなジョンを見て、同じ方角を見る。

ラストシーンで、(記憶のかぎりでは)二人の視線は重ならない。
「二人がじっと見つめ合って微笑む」も可能だったし、なんなら「めでたし感」が出るはずなのに、「メディスン」はそうしない。

人間の心の綾というか、静かな視線の応酬が、ああもう、こんな愛の見せ方があるのか、とため息が出た。

メアリー1は序盤に「恋がしたい」と言った。ラストシーンは恋のはじまりじゃないけど、でもあれは愛だった。
一周まわって、満ちたりた気持ちになりました。

実感したことだけ

4回観ても、「メディスン」を完全には理解できませんでした。
(たとえばメアリー1が手を叩くと照明が消えるのはなぜなのか、メアリー2が2回目で照明消しが成功するのはなぜなのか、とか)

そして4回観ても、台詞はぜんぜん覚えられなかった。

でも、ちっこい脳みそでうんうん考えるのは、とてもたのしかった。

演劇って、観るだけじゃなくて、こんなふうにも楽しめる芸術なんですね。一回飲みこんだ食い物を、また租借する牛の食事みたいな。

わたしの考察(らしきもの)は、わかる人には初見でわかるようなレベルの内容だと思います。もしかしたら逆に、一番大事なポイントを見落としているかもしれない。

とはいえ自分の浅学ぶりを嘆いてもどうにもならないし、それこそゴチャゴチャ考えてもしょうがない。

感度が低いなりに、実感したことだけを書こう。そう決めて、書いてきました。

実感といえば、「メディスン」を俯瞰して考えたとき、あらためて「これはわたしたちの物語だ」と気づいたことがあります。

それはまたいずれ、まとめエントリで。

メディスメディスン言いすぎてうんざりされてないかな、という不安がすごくあるけど…)