奇妙なタイトルだと思った。
母さん+ラブソング。
なんというか、ちょっと居心地が悪くなるような、気恥ずかしくなるような、何か思春期の頃を思い出させるような。
タイトルからストーリーの想像がつかないまま、フラットな気持ちで観た。最後まで観て、やっと意味がわかった。
そして意味がわかった頃には限界まで胸がつまっていて、眉毛以外の化粧がぜんぶ落ちるくらい泣いた(劇場の洗面所でびっくりした)。
観劇から二週間以上が経ち、記憶も薄れつつあるのだけど、感想というかメモを残しておきたいと思います。
* * *
主人公・詩於(うたお)は42歳のミュージシャン。ヒットした過去はすでに遠く、一発屋と自虐しつつも、自信がないわけじゃないからちょっとでも褒め要素が入ると調子に乗る(かわいい)。
それから詩於には「愛されると逃げ出す」という一面も。追いかけるのはいい(「会いたいし抱きしめたいしキスしたい」)けど、振りむかれたとたんに「無理ー」と逃げてしまう。
愛、というものが、わからない。
だから、ミュージシャンなのにラブソングが作れない。
愛がわからないと自覚している詩於は、単にラブソングが苦手というより、「本当の愛を知らない自分はラブソングを作る資格がない」と考えているのかもしれない。
思うに、音楽という手段で嘘をつきたくないのだ。とすると、一見クズの詩於は、むしろ誠実といえる。
そういえば、兄弟の二人劇ということもあって、全体的に二面性が強調されたストーリーだったように思う。
性格が正反対の兄弟。亡くなったお母さんの作ってくれたカレーは、大好きで、大嫌い。
クズと誠実、喜劇と悲劇、愛と裏切り、怒りと悲しみ。カレーに入れるじゃがいもは半分だけすりおろす(これは二面性か?)。
ストーリーのはしばしで、「感情には必ず相反する感情が含まれているのですよ」「あなたに見えているのは、一部分でしかないのですよ」と教えてくれているようで、自分の感情や雑さを疑わずにはいられなくなった。
忙しさにかまけて、自分の感情をきちんと整理したり吟味したりすることが、なくなった。感情を雑に仕分けて、雑に怒ったり悲しんだりしていた。相反する感情を味わう余裕や、ある意味での豊かさから遠く離れていることを教えられた気がした。
ストーリーが進んでいくうち、お母さんからの「きっと成功する」という期待が、詩於にとってどれほど重荷だったかが明らかになる。
売れない間も「きっと成功する、大丈夫」。数年後、詩於は売れる。売れすぎて、やがて一発屋と揶揄される。セールスが落ちる。それでもお母さんは「また売れる、大丈夫」。
母の期待を重荷に感じ、追いつめられていた詩於にとって、愛とは返さなくてはならない負債だった。売れない、という状況は、期待に応えられない以上に、負債が積み上がっていくように感じられていたかもしれない。
誰かに愛されると逃げ出すのも、何も返せない自覚があったからだ。詩於はクズ男のようにふるまうことで、「返せない男ですよ」とアピールし、自分を守っていたのかもしれない。
そしてラストまぎわ、真打ちが登場する。亡き母からの手紙だ。
物語のクライマックスに登場する、亡き母からの手紙ほど強いアイテムがこの世にあるだろうか、いやない(たぶん)。
何か重大なことが書かれてあるはず。恐怖のまじった期待をこめて、観客も息をつめて見守る。
詩於が階段を昇りつめ、手紙を開き、ゆっくりと読み上げる。
「あなたに一つだけついた嘘を告白します。小学生の時に作ってくれたカレー、世界一と言いましたが、とても普通のカレーでした、以上……(※うろ覚え)」
この手紙に、詩於は大笑いする。弟も観客も、なぜ彼が爆笑しているのか一瞬わからない。
詩於は、救われて笑ったのだった。重い呪縛だと思っていたものは、純粋な、親バカな愛だった。
詩於は、母さんの復活会議をしよう、母さんの好きなところを100個言おうと弟に提案する。自由になった詩於は、初めてラブソングを書くことを決意する。
母への重い罪悪感をようやくおろした兄弟は、それまでのシリアスな雰囲気から打って変わり、力強くお母さんの好きなところを列挙していく。
好きなところ、は決して美点だけじゃない(使ったラップ捨てないとか)。子どもにとって、お母さんのあらゆるエピソードは、そのまま「大好きなところ」になるのだ。
詩於はお母さんを再構築し、ラブソングを書くことで、「自分なりの返し方」つまり「自分なりの愛し方」を初めて見つける。
『母さん、ラブソングです。』は、壮大な迷子だった詩於が、何十年も遠回りして、自分の中にあった愛に帰る物語だった。

いまはタイパだとかで、何もかもを効率に片づけるのが絶対的な善、みたいなノリになっていて、何十年もの遠回りなんてばかみたい、生きてる時に言えよ、と思えるかもしれない。
だけど、遠回りするほど円周は大きくなる。同じ場所でいくら掘っても見つけられなかったものが、遠回りしたからこそ見つけられるってことは絶対にある。
たとえそれが、最初から自分の中に埋まっていたものを、ようやく見つけただけだとしてもいい。その経験やタイミングがなければ現れなかった扉が開くことは、誰にだってある。
タイパ主義にあらがって、効率を厭って、遠回りして生きていきたい。そう誓いながら、池袋からの電車の中で、つり革をぎゅっと握った。
そして地元の駅から最短距離で家に帰った。
* * *
ファンの語りなんて自己満足でしかない。わかってるんだけど、それでも言いたい。
主演の田中圭くん(42歳)のかわいさ、キラキラさ、あれはいったいなんなのかと。
人一人の魅力がかわいさだけであるわけはなくて、それはもう万華鏡のごとくだ。けれども、どうしたって田中圭くんはかわいい。
あらゆる身ぶり手ぶり、「会いたいしキスしたいし抱きしめたい」という台詞の声音、カーテンコールの両手ふりふりまでもうすべてが。どこまで計算でどこからナチュラルなのかを問い詰めたいくらい、すべてがかわいく、きらめいていました。
演じる姿をまた観ることができて、とてもうれしかった。すばらしい舞台をありがとうございました。



























































