田中圭くん主演の舞台『陽気な幽霊』を観劇してまいりました。
公式サイトはこちら:
シアタークリエ『陽気な幽霊』
観てから3週間以上も経ってしまい、記憶もあやふやではありますが、心に残ったことだけでもメモしておきたいと思います。
※記憶違いや勘違い、さらには妄想も混じっているかもしれません。っていうかたぶん間違ってます。ごめんなさい。
ざっくりあらすじ
舞台は1941年、イギリス・ケント州。
小説家チャールズは再婚相手のルースと穏やかに暮らしている。
ある日、次回作の取材目的で霊媒師を自宅に招き、知人夫婦とともに降霊会を開く。
儀式はうまくいかなかったかに見えたが、その夜、7年前に亡くなった先妻エルヴィラの幽霊が、チャールズの前に現れる。
エルヴィラの姿はチャールズにしか見えず、ルースは当然信じない。
エルヴィラは夫婦の生活に干渉し始め、騒動はどんどんエスカレート。
チャールズとルースの関係は悪化し、物語は思いがけない結末へと進んでいく。
舞台『陽気な幽霊』感想
口げんかの応酬
まず感じたのは、「口げんかばっか!」。
体感9割は言いすぎだけど、そのくらい夫婦の言い争いががんがんに繰り広げられていました。
夫婦、というのはこの2組。
チャールズ vs 後妻ルース。
チャールズ vs 先妻(幽霊)エルヴィラ。
時代や国が違っても、夫婦の口げんかって変わらないんですね。
妻は「自分が一番愛されていることを確かめる」ために、夫は「自分の正しさを証明する」ために言い争う。だからいつまでたっても平行線。
(それにしてもチャールズ、小説家なのに女の気持ちに鈍感なのはなぜ)
ルースは、理知的で直線的なお召し物が象徴するように、おそらく感情を抑えるタイプ。そんな彼女ですら、チャールズには感情を爆発させてしまう。愛情や執着があるから、こそなんだけど、それ以上に本当の気持ちをうまく言葉や態度で伝えられない。妻って、そういう生き物(たぶん)。
チャールズは、というと防戦一方。しまいには愛してるとかキスとかでごまかす。夫って、そういう生き物(知らんけど)。
先妻で幽霊のエルヴィラとも、やっぱり口げんか。
「私のことを本当は愛していなかった」と言ってみたり、過去の浮気を暴露してみたり。本音を吐き出しているというより、チャールズの気を引くためのカードを切っているように見えました。
自信と余裕たっぷりに見えて、ほんとはいつだって自信がなくて、寂しい。ルースもエルヴィラも、ほかの女たちもみんなそうなのかもしれない。
言葉の裏に隠れたもの
この舞台で印象的だったのは、これだけ言葉が飛び交っているのに、お互いの本心は明かされていないと感じたことです。
とくに、妻たちの怒りの奥には、どうしようもない寂しさが透けて見えるよう。
言えば言うほど伝わらないのに、一度スイッチが入ったら止められない。使える武器は全部使うのに、1ミリも伝わらない。夫婦の言い争いって、距離を置いて見ると、滑稽でもどかしくて、切ないものなんですね。
そして「明かされない」という意味では、エルヴィラがなぜこの世に戻ってきたのかも、結局はっきりしません(たしか)。
降霊会でオールディーズのレコードをかけたことが原因だとしても、そこにどんな記憶や思い出が詰まっていたのかまでは語られない。
エルヴィラは「チャールズの愛が自分を呼び戻した」と言い、チャールズは否定する。
そもそも、チャールズが2人の妻をどれだけ本気で愛していたのか、それもはっきりしない(本人は「愛してる」「愛してた」とか言うけど)。
口数が多いわりには、意外にも本心が語られない。本当に言いたいことは、台詞の合間、沈黙やすれ違いの中に隠されていると感じました。
「再訪問リスト」の救い
1941年といえば、第二次世界大戦まっただ中。戦時中に、この「陽気な幽霊」は上演されました。
幽霊を題材にしたコメディには否定的な声があったものの、予想に反して観客の熱狂を呼んだようです。
戦争で大切な人を亡くした人たちが観たとき、心に深く残ったのは「再訪問リスト」だったのではないかと思います。
これは、亡くなった人が一時的に現世に戻る許可を待っているリストのこと。エルヴィラはそこに名前を書き、許可が下りるのを何年も待ち続け、偶然の降霊会によって現世に戻ってきます。
作中では、さらっと語られるこの設定。でも、大切な人を失った当時の観客にとって、大きな慰めになったのではないかと思います。
海に放り出された私たち
霊媒師の「時間」に対する哲学も印象的でした。
時間は海原。未来は見えない岩礁のようなもの。わたしたちは船で、いつ、どの岩礁にぶつかるかわからない。
過去も未来も混然一体、という考えは、現代の観客たちだけでなく、先行き不安でたまらなかった戦時中の観客の心に残ったと思います。
そして霊媒師が最後に言い残す「道は自分で作る」という言葉。
言葉って、そのままでは力を発揮できなくて、フィルターを通す必要があるんだなとあらためて感じました。
のんべんだらりんとした日常で「道は自分で作るのよ」とか言われても「そうですね」としか思えないけど、愛する人を失ったチャールズと、彼の背中を見ているわたしたちの心には、すっと入ってきました。
遠くから見れば悲劇
チャップリンの有名な言葉に「人生は近くで見ると悲劇、遠くから見れば喜劇」があります。
でも『陽気な幽霊』は、近くで見ると喜劇、遠くから見れば悲劇。笑えるシーンがたくさんあるけど、全体を通して感じるのは、喪失とすれ違いの物語です。
人は、大切な人を失ってからでないと、自分がどれだけ愛していたかに気づけない。
そのどうしようもない現実と、愚かしさが誰の中にもあるなら、わたしたちの人生そのものが、最初から悲劇として設定されているのかもしれない。
でもそれはネガティブとか皮肉とかじゃなくて、ああ、やっぱりそうだったんだな、という納得というか、安心というか、救いになる。逆説的ですけど。
だから、というわけでもないけど、チャールズの最後の言葉を文字通り受け取っていいのか、いまだにわかりません。
雑感と、個人的な願い
ものの本で、「観客はファンであってはならない」とありました。
なるほどと真剣に観劇に臨もうとするのですが、舞台に田中圭くんが登場するや、もうあかん。気づけばため息。舞台の観客になれる日なんて、来そうにもありません。
今回の舞台は、「後妻と暮らす主人公のもとに、先妻の幽霊が現れる」という、今の状況には若干デリケートな内容でした。
チャールズの深酒ぶりを指摘されるシーンもあったりで、なんというか、どうしても現実が重なってしまって。しかたないですね、人間だもの。
まさかこんな状況になるとは思わず、『陽気な幽霊』を一度しか観られなかったのは、残念なことでした。
また来年、舞台に立つ田中圭くんに会えることを、心から願っています。
