社内に陽性者が出て以降、全社的にリモートワーク化しました。
通勤時間ぶんの余裕ができたのはいいのだけど、家事ばっかしちゃうのです、なぜか。
サーキュレーターの掃除とか、ベランダにこびりついた鳥のフンの始末だとか。
「やろうと思えば、家事はいつまででもやれるものだなあ」とか感心してる場合じゃない。
わたしがやりたいのはそういうのじゃないんです。
来たるべきフルリモート化にむけて、朝時間の過ごしかたはますます課題になります。
そんなわけで、この機会に朝時間を見直すことにしました。
浮いた時間でなにをするか
会社との往復は、ドア to ドアで2時間弱。
浮いた2時間でなにをするか。そう、家事なんかやっとる場合じゃないんです。
やっぱりインプットなりアウトプットなりやらねば、ということで、最初はクーリエ・ジャポンの推薦図書を読んだり、ブログを書いたりしていました。
でも『ぼんやりの時間』を読んでから、考えが180度変わって。
せかせかと生きるわたしに足りないのは、ぼんやりの時間。インプットでもアウトプットでもなく、ぼおおおおっとする時間なんじゃないかと。
そこで「コーヒーをつくって、それを飲みながら遠くを眺める」のをためしてみたところ、ぼんやりするっていいもんだなあ、わたしにはこういう時間が必要だわ、と体で理解したのでした。
しばらくはそれで満足していました。これが最適解だ、ぼんやりコーヒータイムを新習慣にしよう、と。
わたしがなくしていたもの
ある朝、コーヒーを手にぼーっと風景を眺めていると、すぐ近くに植わっている梅が満開を迎えているのに気づきました。
近くに梅林らしきエリアがあるのは、なんとなく気づいていたんです。でもきっと所有地だろうし、見に行って変質者あつかいされるのもいやで、見て見ぬふりをしていました。
春だからか、このときは何やらむずむずして「わざわざ見に行かなくても」「ここから見えるんだし」と思いつつ、靴を履き直して梅を見に行きました。
するとですね、じつはその一帯、公的な緑地保全地区のプチ梅林エリアだったのです。
これにはショックでした。越してきて5年、なぜいちども近づこうとしなかったのかと。
家からただ、「なんか咲いてる」と眺めてるだけでした。そこがどんな場所かをたしかめもしないで。
なんてもったいないことをしてきたんだろう。いや、それよりも、なんという好奇心のなさかと情けなくなりました。
なくしていたのはぼんやりの時間だけじゃなくて、好奇心もだったのです。
朝の過ごしかた、新習慣
その日から、朝にプチ梅林エリアを散歩するのが日課になりました。
朝っぱらから近所を散歩なんて老後みたいだなと、最初は妙な気恥ずかしさもあったのですが、2日で慣れました。
数日散歩するだけでも、いろいろなことに気づきます。
ずっと桜だと思ってた木が実は梅だったとか、満開のあとは桜みたいに一晩で散っちゃうとか、うぐいすって鳴く練習するんだとか。
そんなものを見たり感じたりしているうち、いろんな物事が遠くなります。通勤時間、インプット、アウトプット……
この時間を犠牲にして、どうなりたいんだ
散歩から戻ったら、ひとりぶんのコーヒーをいれます。軽くストレッチして、ぼんやりコーヒータイムを過ごしたら、あっという間に始業時間。
そんなわけで、インプットも、ブログを書く時間もめっきり減ってしまいました。
こんな時間の過ごしかたがほんとうに良いのか、わかりません。
現代の価値基準でいうと、改悪かもしれません。インプットやアウトプットの時間を削って、ぼんやりするなんていうのは。
ただ、梅を眺めているときふと「この時間を犠牲にして、わたしはどうなりたいんだ」という気持ちになって。
なにが自分を幸せにするかは、自分にしかわかりません。
それが「なに」かって気づくにはたぶん、感受性だとか好奇心だとかが必要で、それらを育むには、ぼんやりする時間、あるいは心の余裕がどうしても必要なのです。
良い・悪いでなくて、いま必要としていることに敏感でいたい。リモート化で浮いた朝時間を、心の余裕をつくるための時間にできるといいなと思います。
これまでとまったく違う、朝時間の過ごしかた。
ますます現代離れしてる気がしなくもないけど、わたしはたぶん、原始人化すればするほど元気になるタイプなんだろうと思います。
いままで自分が捨ててきたものを、拾ってる感覚に近いかもしれません。
散歩ひとつに大げさだけど。