名前を呼べないひとがいる。
あるバンドのボーカルで、私は20年来のファンだ。
この20年ずっと、彼の名前を呼べないでいる。「○○のボーカル」、そうとしか呼べない。
彼の歌を聴きすぎて、ミトコンドリアにも刻まれてしまった。
顕微鏡でのぞいたら、一部には音符がぎっしりつまってるんじゃないかと思う。
彼のことを考えると、心臓から細い手が生えてきそうになる。
写真をじっと見つめたら、足まで生えてどっか行っちゃいそうだ。
* * *
当時、私は音楽業界の隅っこみたいな場所に身を置いていた。
ミュージシャンや音楽業界の人々が日常的に出入りする、ちょっと特殊な場所だった。
当日誰が来るかは、風の噂でなんとなく耳にする。場合によっては事前告知がある。とはいえ自分の担当でなければ関係のない話だし、有名人を見かけたところで何とも思わなかった。
その日、私はいつものようにぼおおおおおっと天井を見ていた。
暇だった。
やらなくてはいけないことは山ほどある。でもそれは私じゃなくても、誰かがやれることだった。私は私にしかやれないことをやりたかった。まずはあと10分したらコンビニへおやつを買いに行こう。
「すみません」
小さな低い声が聞こえた。振り向いた瞬間、私は息をのんだ。
やや猫背気味の、背の高い痩せた男が立っていた。
目を覆う茶色の前髪。こげ茶色のソフトな目。細くて青白い首すじ。花の茎みたいに華奢な身体。
薄手のTシャツと細身の黒いパンツを着たそれは、生身の男だった。
前髪の奥から、切れ長な二つの目が私を見ている。地上に降りてきてはいけない男が、目の前に立っている。
神か、あるいは私のミトコンドリアに刻まれた声の持ち主。
頭の中が真っ白になっている間にも、相手は表情をぴくりとも変えずに待っていた。
ほんの数秒が、ひどく長い時間に感じられた。
形式的な短い会話のあと、私は彼の大きな背中を見送った。会話は、相手がスタッフであれば誰でもいい内容だった。
彼の背中が視界から消えたと同時に、突然身体ががたがた震えだした。
尋常でない震えだった。裸で北極に放り出されたみたいな、ほとんど痙攣に近い震えだった。
歯の根が合わない。とても立っておられず、その場に膝をついた。
後輩が私の名前を呼んで駆け寄ってくる。私は後輩にしがみつき、歯の根が合わないまま重大な事件を語った。
「落ち着いて、ナオさん。ふつうに話しかければいいじゃないですか」
ありえない。私は彼のファンとしてここにいるわけじゃない。万が一ミーハー的行動を起こしたら、私は一生自分を許せなくなる。
そう言うと相手はあきれたように「そういうとこだけ真面目なんだから」と言った。「次いつ会えるかわからないんだから。思いきってファンですって言っちゃいましょ。大丈夫ですよ!」
いやだと私は言った。私にとって彼は、彼でなくてはならない。でも相手は私の存在など、どうでもいいのだ。
私はその時、ある言葉を思い出していた。
多くのミュージシャンから相談を持ちかけられる (そして数々のCDやDVDに名前がクレジットされている) 大先輩の言葉だった。
彼女は私の目をじっと見てこう言った。
《橘は絶対、本当に欲しいものを言わないね》
美人で、アグレッシブで、常に自信に満ち溢れている。そんな彼女に、人生に対する態度を一発で言い当てられて何も言葉が出なかった。
自分の真ん中にあるものを、誰にも明け渡せない。何が欲しいかなんて、一度も打ち明けたことはない。たとえすぐそばに死ぬほど好きな人がいても、好きですなんて言えない。言えるわけがない、たとえ相手にはどうでもよくても、それは私の命そのものなのだ。
小一時間ほどが経ち、彼がこちらへ戻ってきた。
「来ましたよ」、後輩が私に耳打ちする。わかってる、私は口の中で言う。
来ると知らずに話しかけられるのと、来ると知っていて待ち受けるのとでは、後者の方が何億倍も心臓に悪かった。
つとめて表情は変えず、目の端でこっそり彼の姿を追う。
彼はふつうの速度で歩いていた。急いでいるふうでもなく、のんびり歩いているのでもない。ちょっとした用向きが終わり、レコーディングスタジオに戻るミュージシャンの歩き方だった。
千載一遇のチャンスだと知っていた。もう二度と会えない、これが最初で最後のチャンスだという予感もあった (そしてその予感は当たった)。
それでも動けなかった。
ライブ会場の黒い柵が、胸元に当たっていた。わたしはそこから一歩も動けなかった。
彼が近づいてくる。震えの止まらない両手を固く握り締める。心臓が限界を訴える。息を小さく吸う。
お疲れさまです。
街路樹のようなナチュラルさを心がけたのに、声が震えているのが自分でもわかった。
相手がぱっと顔を上げた。前髪の奥から私の顔を見て、小さく頭を下げた。
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以下のエントリに書いたバンドのボーカルです。