10年以上前、死んでも行きたいライブがあった。
あるロックバンドの全国ツアーで、チケットは数秒でソールドアウト。もちろん全敗したわたしは、追加公演の東京ドームにすべてをかけていた。
あとにも先にも、これほど参戦を渇望したライブはない。喉から手が出るほど、とまではいわないけど、指の一本くらいは出てたんじゃないかと思う。
どうしてそれほどまでに行きたかったかというと、次のツアーが発表されるころには、わたしは死んじゃってると考えていたから。
若い時分に持病のオプションを抱えて以来、体調は「ちょっと悪い/悪い/めちゃくそ悪い」のあいだを行き来していた。
当時のステータスは「めちゃくそ悪い」。この冬は越せないかもしれないと、真剣に考えていた。
だからどうしても行きたかった。最後にもう一度だけ。
アルバム封入の最速予約。プレイガイド各先行。一般。
死ぬ気でのぞんだチケット争奪戦は、すべて完敗に終わった。
* * *
「しょうがないよ。また来年、がんばって取ればいいじゃん」
あるバンドの全国ツアーから戻ってきた夫は、狭い廊下でスーツケースの中身を片付けながら、気楽な調子で言った。
そんなふうに言ってほしくなかったと、言われてから気づいた。
夫の言うことはいつも正論だ。だけど正論が聞きたくて話をする人間がどこにいるだろう。
音楽を生業とする夫は、チケットを自力で取った経験がない。行きたいライブは、いつもだれかがチケットを用意してくれる。10代のころからそうだった。行きたいライブはすべて、マイケル・ジャクソンのドーム公演さえ彼の友達が取ってくれた。
いや、チケットの取り方を知らない以前に、彼にはそもそもライブにたいする執念がなかった。ライブは仕事やつきあいで行くものであって、プライベートで行くものじゃない。
夫はスーツケースの中身をどんどん片付けていく。つねに迷いがない。わたしとはぜんぜん違う。
ライブに行きたいという思いひとつ、共有できない。同じ部屋に暮らしていても、住む世界はあまりに違っていた。
「あなたにはわからないだろうけど」とわたしは断って言った。「今、体調がめちゃくちゃ悪いの。来年なんか……」
言ってもしかたがないことを、つい言ってしまう。だけど言わずにはいられなかった。自分と不運を責めるだけでは、どうしても足りなかった。
彼は眉毛を下げて、子どもをあやすような顔を向けた。
「大丈夫だって。前のほうがもっとひどかったじゃん」
わたしは黙った。彼はなにも知らない。彼は正しい。内臓がだめになっていくのは彼のせいじゃない。わたしの個人的な問題だ。
下を向いて、絶対に言うまいときめていたことを口にした。チケット、むりだよね。
むりだよ。即座に固い声が答えた。
「言うのが遅すぎる。知り合いがいるかもわからないのに、いまさらどうにもできない」
わかっている。わかっているうえで、言ったのだった。これが最後の参戦になるという予感でもなければ、とても言えた言葉じゃなかった。
「オレに頼らないでくれよ」、彼は釘を刺すように言った。
顔を上げ、相手の眉間のしわを見て、また下を向いた。夫の立場を利用しようと安易に考えていたわけじゃない。でも彼にそう受け取られたと思うと、なにも言えなくなった。
* * *
最後にもう一度だけという思いが、毒のようにまわっていた。
一週間経っても気分が晴れず、ある日、仕事を早めに切り上げて都内のアクセサリーショップへ行った。
ガラスケースに上品におさまったシルバーアクセサリーを、さも関心をもっているふうな顔で、時間をかけて一点ずつ見てまわった。
すべてを丹念に検分したあと、ひとつのネックレスの前に戻った。
髪の長い女性店員がカウンターから出てきた。「それ、○○○のボーカルがつけていらっしゃるんですよ」、彼女は親切に説明した。
顔が熱くなった。わたしみたいなのが、いっぱいくるのだ。最初からなにもかもバレていたと思うと、脇の下と背中から汗が出てきた。
「妹が、ファンで」とわたしは言った。「ライブのチケットが取れなかったらしくて。それで……」
ほとんど考えもなしに、聞かれてもいないことを口先でぺらぺらしゃべった。そういう自分が死ぬほど嫌いなのに、このときも止められなかった。
だれかになぐさめてもらいたかったのかもしれない。だけど気が晴れるどころか、嘘と恥の上塗りだった。
カウンターの上で過剰包装されていくネックレスを、少し離れた場所から見ていた。月給の3分の1を引き出して、どうしてあんなものを買ってしまったのか、もうわからなくなっていた。
ネックレスを運ぶ以外に使いみちのなさそうなショップバッグを受け取り、外へ出た。そんなのしなくていいのに、わざわざ店員が外まで見送ってくれた。道理を知らない田舎者のように頭をぺこぺこ下げ、来た道を早足に戻った。
恥のかたまりが、喉もとから出てきそうだった。ネックレスを手に入れたところで、もとの持ち主に近づけるわけじゃないと、わたしはほんとうにわかっていただろうか。
オレンジ色の夕日が、表通りの歩道橋やらビルやらをまぶしく照らしていた。あまりにもまぶしいものだから、ネックレスがあまりにも軽いものだから、胸がつっかえて、少し涙が出た。
* * *
ネックレスはつけなかった。手にのせるだけで心臓はやたらにうるさくなるし、そういう自分がたまらなく嫌だった。
身につけるかわりに、ベロア生地の黒い巾着に入れたまま、どこへ行くにも持ち歩いた。
会社で唯一、同じバンドのファンであるエンジニアの男の子に見せると、相手は女の子みたいな声で笑った。
彼はおもしろそうにネックレスをつつきながら、「おそろいで買うファンって、ほんとにいるんすね」と言った。
「残念賞だよ」とわたしは言い訳した。
値段を聞かれて答えると、相手は感心したような、あきれたような目でわたしを見た。
「つけないんすか」
「だって、恥ずかしいじゃん……ミーハーみたいで」
「いや、もうじゅうぶんミーハーっす」
へへ、とわたしは笑った。一緒になって笑ってくれる彼もまた、チケット全敗男だった。同じ境遇の相手と、ちょっとした軽口を叩き合うだけで、気持ちがなぐさめられた。
ちょうどそのとき、手の中の携帯が鳴った。相手は夫。
もちろん出ない。無視していたら、しつこくかかってきた。あきらめてテラスへ行き、通話ボタンを押した。
前置きなく、相手はささやき声で早口に言った。「あと2分しかない。黙って聞いて」
聞いてって、なにを……、言いかけた言葉をのみこんだ。電話の向こうから、なにか音楽が聞こえた。
喉が硬直して、息がつまった。右耳に指をつっこみ、左耳に携帯を押しつけ、全神経を集中させた。
それはCDじゃなかった。ほんもののバンド演奏と、ほんものの歌声だった。
2分間、わたしの全細胞は耳になった。自分の体や意識が、この場に存在するのも忘れていた。
「聞こえた?」
うまく声が出せなかった。なにか言おうとして、妙なうなり声が出た。
「今日、たまたまリハスタが隣だったんだよ。オレもびっくりしてさ……もしもし?」
なにかを言うべきなのに、言葉にならなかった。鼻水をすすって、それから小さくお礼を言った。
「あ……ごめん、もう行かないと」彼はあわただしく言い、少し置いてこう聞いた。「元気出た? ちょっとは」
うん。体、治った。生まれたてみたい。もうわたし、一生、ライブ行けないでいい。
「それは言いすぎ」明るく笑って、相手は電話を切った。
その夜、夫からくだんのボーカルとエレベーターでふたりになった話を聞かされた。
夫の話を聞いているうち、狭いエレベーターに自分も乗り合わせたような、むしろわたし自身の記憶であるような、リアルな感覚が生まれた。それで、なぜだか、ひどく満足してしまったのだった。
あれからずいぶん経つけれど、いまだライブには行けていない。ネックレスも巾着に収まったままだ。そしてわたしはいろんな「悪い」を行き来しながら、しぶとく生きている。
死ぬほど行きたいライブに行けなかった。でももしあっさり行けていたら、いまとはなにかが違っていたのではないか。そういうポイントが、人生にはいくつかあるように思う。
アルバムを聴くたびに、ライブに行きたいと思う。だけどその思いは、あのころとは少し違ったかたちで胸のなかにある。
喉から指が出るたぐいの執念ではなく、枝葉を切り落としてなお残る、まっさらな希望として。
(↓以前に書いた、このボーカルのバンドです)