君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

19回目のエイプリルフール

白いテーブルランナーの上で、彼のスマートフォンがまた息を吹き返す。

向かいにすわっている彼が、当たり前みたいにスマートフォンに手をのばす。顔をしかめ、指先で手早くメッセージを入力する。
どう鍛えればそんなに素早く指が動かせるんだろうと思う。スマートフォン操作の世界選手権にエントリーできそうだ。

黙ってティーカップを持ち、さめた紅茶を飲む。3段のケーキスタンド越しに、夫の険しい表情が見える。眉間にぎゅっとしわが寄っている。いい男が台なしだよと言いかけて、やめる。

朝から数えて、これで1万回め。夜までにあと9万回は通知が来る。
これだけの通知をお知らせできれば、スマートフォンも貢献感に満たされているだろう。24時間ひっきりなしに通知し続ける彼女のために、休暇と花束を用意してあげたい。

カップをソーサーに置き、少し離れた場所に植わっている細い竹に目をやる。竹は目隠しを兼ねていて、窓際のエリアと中央のエリアをさりげなく分割している。
中央のエリアに客はいなかった。平日のお昼どき、ホテルのアフタヌーンティーに訪れる客はそれほど多くはないようだった。

竹は自分がパークハイアットの41階に植わっているのに気づいていないように見えた。自力でこの場所に根を張ったのではないと知らされたとき、彼は何を思うだろう。
竹は年じゅう葉をつける植物なのだろうか。竹が木なのか、草のたぐいなのかも知らない。忍者の子どもが修行に使う植物、私の知識はそれだけ。

知らないことだらけだ。私が知ってることなんて世界の0.1パーセントにも満たない。そんな私でも知ってることがひとつある。今日は愉快なエイプリルフール。


19年前の今日、我々はこの日がエイプリルフールだという意識もないまま徹夜で議論を重ね、名前のつかない微妙な関係を恋人関係に発展させた。
性的指向が曖昧だった私は「時間がかかるかもしれない」と断りを入れ、彼がそれでもかまわないと受け入れた。

それから19年。
 

視線を戻すと、スマートフォンがテーブルに置かれていた。彼が取ってつけたような日常生活上の話を口にする。それは結婚記念日を祝うのにうってつけなトピックに思えた。
彼はうわの空だった。頭の中身はどこかの空を飛んでいる。妻の顔は透けている。

「ねえ」、生活感の漂う心楽しい会話を遮って、私は言った。「竹って、年じゅう葉っぱが生えてくるのかな」

彼は少し考えて言った。「生え変わるんじゃなかったかな、季節までは知らないけど」

そのあいだにもスマートフォンはひっきりなしに彼を呼ぶ。神経症的に浮気を疑う女みたいに。
彼は妻なしでも生きていけるだろうけど、その小さな金属だかプラスチックだかの塊、あるいは神経症的な女なしには生きていけない。

カードをこしらえて持ってくるべきだった。我々に必要なのは、いまこの瞬間に語り合うべきトピックの書かれたカードだ。
出会いは? 相手を意識したのはいつ? 昔とくらべて変わったところはある? もっとも印象深い思い出は? 将来の夢は?……

彼はロマンティックから遠く離れた場所にいる。19年前から知っていたのに、なぜまだ期待しようとするんだろう。出がけに服を指摘しなければ、デートだという認識さえ持てない男に。

次に彼がスマートフォンを手にしたとき、私は考える前に口を開いていた。

「いいかげんにしてよ」

彼がはっと顔を上げた。私はいちど深呼吸してから言った。

「今日を何だと思ってるの。一年のうち、たった一時間もこっちを向けないわけ?」

「ごめん」、彼は眉根を寄せた。「でも急ぎの件なんだよ」

教えてあげようか。相手はいつだって緊急なんだよ。私は言葉を飲み込んでカップに残った紅茶に目を落とす。

彼の案件にどんな問題が持ちあがっているか、朝から説明を受けていた。本当はスタジオに行かなくちゃいけない。でもそれを断ったからメールがいっぱい飛んでくるんだよ。
ここに来るまでにも、彼は歩きながら常にスマホをさわっていた。難しい顔をして、常に指を動かして。

忙しいのは知っている。そんなの昔から知ってる。彼は年がら年じゅう忙しい。竹が休みもせずにせっせと葉を茂らせるのと同じように。
何もかもがしかたない。妻の顔よりスマホを見る時間が長いのも、妻の命より仕事が大事なのも。

たとえ妻が銃弾に倒れても、彼は病院にさえ現れない。ラストシーンは墓の前で謝ればいい、『君との生活をもっと大事にすれば良かった』。

「だったら、ひとこと断るべきじゃないの」

つとめて冷静な声で言った。指先が震え出しそうだった。

「ここにいる間くらい、当たり前みたいにスマホをいじくり回すのはやめて。それもできないなら今すぐ出ていって」

彼のピントが私に合わされる。ここに来てはじめてまともに妻の顔を見る。なんて素晴らしい結婚記念日。

妻が黙ったのを見て、彼はスマートフォンの画面をテーブルランナーの上に伏せた。
41階の窓から投げすてられるのを危惧したのか、その小さな塊はしばらくのあいだ黙っていた。

 

* * *

 

飲み食いだけで疲れ果ててしまった我々は、パークハイアット近くの公園をあてもなくうろついていた。
見るも無残な葉桜のそばを通り過ぎ、ため息をつく。今ごろ新宿御苑の桜を見上げているはずだったのに。3週間越しのプランは、結局ひとつしか実現しなかった。

新宿御苑の桜も散っちゃってるよ」、彼がはげますように言う。

もっと早く家を出ればよかった。紅茶を飲みすぎなければよかった。考えられるだけの後悔を並べ立てる私を、彼が明るくなぐさめる。しかたないよ。次があるよ。いいじゃん、ここの公園だって十分きれいだよ。

しばらく歩くと、チューリップが一面に植えられた広い花壇に出た。
色には統一感がなく、赤やら白やら黄色やらのチューリップが好き放題に咲いていた。これだけのチューリップにお目にかかるには、それなりのコストが投じられた公園でなければ難しい。うちの近所の公園には花一本植わっていない。

チューリップはたっぷりの日差しを浴びて、いささか花が開きすぎていた。じっと見ていると、だんだんチューリップにさえ見えなくなってくる。これはほんとうにチューリップなのだろうか?
この事件を報告しようと振り返ると、スマートフォンの背面がまっすぐこちらに向けられていた。

何を撮っていたのか、彼は言わなかった。私も聞かなかった。あるいは貧相きわまりない「元・桜」を撮っていたのかもしれない。開きすぎたチューリップを観察する妻ではなく。

風にのって、桜の花びらが舞う。彼は桜の木に近づき、散っていく桜をスマートフォンで撮る。花びらが一枚、彼の髪に引っかかる。その姿を私は遠くから写真におさめる。

彼の意識がこの場にとどまっている。視線は桜に注がれている。それは桜が散るよりずっと儚い時間に思われた。

彼の手に指をからませる。大きな手が握りかえす。私たちは身体をよりそわせて歩く。

「だれも不倫とは気づくまい」私は森の魔女のようにクククと笑った。

「今日はそういう設定だったんだ」これといった感動もない声が答えた。

「そうだよ。知らなかった?」

「知らなかった」

彼を見上げると、彼も私の目を見た。何か言いたそうな唇は何も言わなかった。
陽光に透けたケヤキの葉が、彼の頭上で風に揺れていた。