7年ほど前のこと。夫に「観においでよ」と誘われ、東京ドームへあるライブを観に行った。
座席は1階のバックネット裏。関係者エリアでなく、ふつうの一般席だった。
つまり好きにしてよしということで、安心する。関係者席は、緊張するというか、申し訳ないというか、すごく気疲れするから。
東京ドームは広さのわりに、ステージが見やすい。
個人的には、アリーナよりも全体を見渡せるバックネット裏が好きだった。
開演30分前。夫からメールが届いた。
「着いた?」
返信を打つ。本番前にメールなんか打ってて大丈夫なのかと、ちょっと心配になった。
「手を振ってみて」
見えるわけないだろうと思いながら、言われたとおりにする。とくになにも起こらず、手を引っ込めた。
「振った?」
「振ったよ」
「じゃあ、立って振って」
わたしは席を立ち、どこへ視線をやってよいかもわからないまま手を振った。
すると、アリーナ後方に設置されたFOH(PA)ブースにいるスタッフ全員から、手を振り返された。
会場の視線が、一気に集まるのを感じた。
脇と背中から、汗が吹き出る。すぐ席にすわった。
それで終わりと思っていたら、PAブースにいた数人がこちらへ向かって走ってくる。
あわててバックネット裏へ駆け下りる。脇から汗が流れ落ちる。
いったいなんの用かと思う。話すことなんか、なにもないのに。
フェンス越しに話すのかと思ったら、相手が警備に断りをいれて1階席側へ入ってきてしまった。アリーナから1階席へ通じる通路があるなんて、それまで知らなかった。
こういったことに詳しくはないのだけれど、スタッフが一般席に行くこと自体許されるものなのか、あとで問題になりはしないだろうかと、まずはそれが心配になった。
相手がこちらに到着するまでに、妻として、この場にふさわしい挨拶を必死に考えた。なにを言えばいいのか、どんな表情でいればいいのか、ほとんどなにもわからなかった。
「はじめまして」と下げられた頭よりも深く頭を下げ、わたしは「夫がいつもお世話に……」などとしおらしく対応した。
そこにいたのはわたしではなく、夫の妻だった。この場でわたしは、わたしではなかった。それは想像以上に苦しいことだった。
なにを話したか、まるで覚えていない。
ずっとお会いしたかったんですよ。話はよく伺っています。
必死に笑顔を浮かべ、気の利いたリアクションを返しながら、早く解放されるのを願っていた。
きょうは楽しんでいってくださいね。
最後にお互い頭を下げ、手を振って別れた。
席に戻るまでのあいだ、観客席から刺すような視線を感じた。
心臓が痛かった。足が震えていた。会場のファン全員から憎まれている気分だった。
席に戻ると、それを見ていたかのように電話が鳴った。
「びっくりした?」
声を聞くとほっとした。家にでも帰った気分だった。
びっくりしすぎて、ライブどころじゃなくなったとわたしは答えた。相手は楽しそうに笑った。
「押してるの?」
そうたずねたとき、隣にすわるファンが会話に耳をそばだてているのに気づいた。
大丈夫だよと彼女に言ってあげたかった。あなたの大好きなアーティストとしゃべってるわけじゃない、心配しなくていい、相手はくだらないギャグばっかりいう、わたしの夫なのだと。
いや、と答える夫はどこかのんびりしている。わたしのほうが、妙に気持ちが焦る。
腕時計を見た。本番10分前。のんきに電話なんかして大丈夫なのだろうか。
どうもこのあたりのルールというか、業界の許容範囲がよくわからない。
すぐ本番だというのに、ドームだというのに、声は落ち着きはらっている。
「緊張してる?」
「おれが? しないよ。したことないし」
「ドームだよ」わけもなく、強調した。そう言ってから、そうだ、ここはドームなんだと思った。
べつに変わらないよと彼は少し笑った。
じゃあなんで電話してきたんだろうと思ったけれど、それは聞かなかった。
「いいの、電話なんかしてて」
「うん。もう行くよ」
ステージを見る。
暗く、人影はない。
あのステージの向こうに、彼がいる。そう思ったら、何か胸がつまった。
「がんばってね」
自分の声に、力がこもるのを感じた。
「ありがとう」
1ミリの気負いもなくそう言って、相手は通話を切った。
まもなく本番がはじまった。
この場において、夫は夫ではない。彼自身の彼でもない。ある役割を果たすために存在する人間だ。
それはたぶん、彼にとっていちばん幸せなことなのだろうと思う。
ドームのあっち側に行った彼と、こっち側にいるわたし。
どっちがすごいとか、どっちが幸せもない。
どちらも等しくすごくて、幸せなのだ。
そんなふうに、思った。