君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

ドームのあっち側にいる彼と、こっち側にいるわたし

いろいろなことが重なって、いつにも増して情緒がおかしい。しんどいです、毎日。

そんなものだから、忘れられない思い出をひとつ……他人に起こった良きことなんかおもしろくもなんともないのは重々承知のうえで、書きたいと思います。

* * *

7年ほど前、夫に「観においでよ」と誘われ、東京ドームへライブを観に行った。

座席は1階のバックネット裏。関係者エリアでなく、ふつうの一般席だった。
つまり好きにしてよしということで、ちょっと安心したのを覚えている。

東京ドームは広さのわりに、ステージが見やすい。
個人的には、アリーナよりも全体を見渡せるバックネット裏が好きだった。

開演30分前。夫からメールが届いた。

「着いた?」

短いメールに返信しながら、本番前にメールなんか打ってて大丈夫なのかとちょっと心配になった。

「手を振ってみて」

見えるわけないだろうと思いながら、言われたとおりにした。とくになにも起こらず、手を引っ込めた。

「振った?」

「振ったよ」

「じゃあ、立って振って」

わたしは席を立ち、どこへ視線をやってよいかもわからないまま手を振った。

すると、アリーナ後方に設置されたPAブースにいるスタッフ全員から、手を振り返された。

会場の視線が、一気に集まるのを感じた。

脇と背中から、汗が吹き出る。わたしはすぐ席にすわった。

それで終わりだと思っていたら、今度は、PAブースにいた数人がこちらへ向かって走ってくるではないか。

あわててバックネット裏へ駆け下りる。脇から汗が流れ落ちる。
いったいなんの用だ。なにを話すのだ。

フェンス越しに話すのかと思ったら、相手が警備に断りをいれて1階席側へ入ってきてしまった。アリーナから1階席へ通じる通路があるなんて、それまで知らなかった。

こういったことに詳しくはないのだけれど、スタッフが一般席に行くこと自体許されるものなのか、あとで問題になりはしないだろうかと、まずはそれが心配になった。

相手がこちらに到着するまでに、妻として、この場にふさわしい挨拶を必死に考えた。なにを言えばいいのか、どんな表情でいればいいのか、ほとんどなにもわからなかった。

「はじめまして」と下げられた頭よりも深く頭を下げ、わたしは「夫がいつもお世話に……」などとしおらしく対応した。

そこにいたのはわたしではなく、夫の妻だった。この場でわたしは、わたしではなかった。それは意外なほど苦しいことだった。

なにを話したか、まるで覚えていない。

ずっとお会いしたかったんですよとか、話はよく伺っていますとか、そういうことを言われた。必死に笑顔を浮かべ、気の利いたリアクションを返しながら、早く解放されるのを願っていた。

きょうは楽しんでいってくださいね。
最後にお互い頭を下げ、手を振って別れた。

席に戻るまでのあいだ、観客席から痛いほどの視線を感じていた。
わたしはうつむき、髪で顔を隠しながら歩く。見るに値しない顔を見られないように。

心臓が痛かった。足が震えていた。会場のファン全員から憎まれている気分だった。

席に戻ると、それを見ていたかのように電話が鳴った。

「びっくりした?」

声を聞くとほっとした。家にでも帰った気分だった。

びっくりしすぎて、ライブどころじゃなくなったとわたしは答えた。相手は楽しそうに笑った。

「押してるの?」

そうたずねたとき、隣にすわるファンが会話に耳をそばだてているのに気づいた。

大丈夫だよと彼女に言ってあげたかった。あなたの大好きなアーティストとしゃべってるわけじゃない、心配しなくていい、相手はくだらないギャグばっかりいう、わたしの夫なのだと。

「いや。オンスケだよ」

腕時計を見た。本番10分前。のんきに電話なんかして大丈夫なのだろうか。
どうもこのあたりのルールというか、業界の許容範囲がよくわからない。

すぐ本番だというのに、さらにはドームだというのに、相手の声はいつもどおり落ち着いていた。

「緊張してる?」

「オレが? しないよ。したことないし」

「ドームだよ」わたしはわけもなく強調した。そう言ってから、そうだ、ここはドームなんだと思った。

べつに変わらないよと彼は少し笑った。当たり前だというひびきがこもっていた。

じゃあなんで電話してきたんだろうと思ったけれど、それは聞かなかった。

「いいの、電話なんかしてて」

「うん。もう行くよ」

わたしはステージを見た。
ステージは暗く、人影はなかった。

あのステージの向こうに、彼がいる。そう思ったら、何か胸がつまった。

「がんばってね」

自分の声に、力がこもるのを感じた。

「ありがとう」

1ミリの気負いもなくそう言って、相手は通話を切った。

それからまもなくして本番がはじまった。わたしはほかのファンと同じように立ち、ライブを観た。

この場において、夫は夫ではない。彼自身の彼でもない。ある役割を果たすために存在する人間だ。

それはたぶん、彼にとっていちばん幸せなことなのだろうと思う。

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ドームのあっち側に行った彼と、こっち側にいるわたし。

どっちがすごいとか、どっちが幸せもない。
どちらも等しくすごくて、幸せなのだ。

それだけでもう十分、奇跡的なことのように思えた。