君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

週末、本に救われる

外は秋晴れの、気持ちのいい天気。絶好のお出かけ日和、ほとんど見せつけるみたいに、それはもう。

出かけたいという気持ちはある。確実にある。なのに、あれこれと理由をあみだしては、家に閉じこもる。じっと閉じこもっていると、だんだんもやもやしてくる。

お酒を飲んだり、K-POPのイケメンを眺めたりすると、いっとき口元がゆるむ。気分がよくなる。ところがしばらくすると、また元のもやもやにおおわれる。

ぐずぐずするうち日が暮れて、もやもやしたまま休日が終わる。同じ週末を、気がつけば何度も何度もくり返している。

 

先週末も、相変わらずぐずぐず&もやもやしていた。

どこかへ出かけたいと口ではいいつつ、ソファから立ち上がれない。いったいなにがそんなにめんどくさいのか自分でもわからないけどとにかくすべてがめんどくさい。

サイドテーブルがわりのイスに、図書館で借りた本が積んである。借りたくせに読んでいない本たち。読んだけど、中身をきれいさっぱり忘れた本たち。本を読むのにアイドリングがわたしには必要で、それがどうしてかって考えると、この本を読んだからって何になるんだろうとか、一瞬のうちに余計なあれこれを考えるから。

このときは余計なあれこれを考えず、本を手にとった。

はじめは、文章が頭に入らない。ぼんやりしている。同じ箇所を、行きつ戻りつ読む。目をゆっくり上下させていると、少しずつ目が開いていく。血のめぐりが、よくなる。意識が本に集中するからか、もやもやもどこかへ消える。

手にとったのは、『こだわらない練習』(小池龍之介著)。本の中で、著者は「心の故郷は『不快』で、苦しいもの」と説く。

私たちは、「快」を求めて「不快」を避けたがるのですけれども、あいにく「快」という脳内の状態は「不快」から解放されたときに一時的にのみ生じるだけで、そのいっときが終わると心は再び「不快」へと戻ってゆくのです。

はっとした。意味不明なもやもや、これこそが、心の故郷だったとは。

快いのは、いっときのこと。お坊さんのエッセイも、お酒も、K-POPのイケメンも。

何もかも、いっとき救ってくれるものでしかない。そして救われたと思ったら、「獄卒が追いかけてきて、百パーセント絶対確実に捕らわれて、再び故郷(不快)に閉じこめられる」。

そんなふうにできていたなんて。おどろいた。何かともやもやするのは、努力が足りない、もしくは、わたしの性質が、よろしくないのだとばかり思いこんでいた。

むしろ、喜ばしく感じても、「その瞬間だけの、一期一会のものとして味わう」「味わったら忘れてしまう」ことが肝要だという。そうしなければ、「快感が心に染みこんで中毒化する」から。

それは嬉しさを拒絶したり否定することではなく、その瞬間をしっかり味わいつくして執着しないという、一期一会の作法なのです。

嬉しいことがあったら、心の中でこうつぶやくといいそう。「この嬉しさもまた過ぎ去る」「これもまた消え行く」「これもまた、今だけのもの」。

執着しないこと。どうせもやもやするのが普通で、気分がいいのは一瞬だけだから。ならば、じたばたしてもしょうがない。

本を置き、とくに意味もなく、黙ってマフィンを焼く。焼き上がると、いっとき、気分がよくなる。あまくてほろ苦いマフィンを食べ、コーヒーを飲みながら「これもまた過ぎゆく」と、つぶやいた。

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