目が、痛&重い。朝から晩まで、ノートパソコンの小さい画面をじーと見ているからだ。
じーと見て、仕事のふりをしている最中は気づかないけど、パソコンから離れたとたん、目がずううんと重くなる。仕事が終わったら底なしに疲れて、好きで勝手にやってることとはいえ、ブログを書くのもひと苦労です。
ブログの下書きを手書きするようになったのは、日ごろの眼球の限界と、お坊さんのエッセイ『考えない練習』(小池龍之介著)に、心を動かされたから。
たとえば、「はじめに」はこんな感じ。
問題は、心はひたすら「より強い刺激を求めて暴走する」という特徴を持っていることです。淡くて穏やかな幸福感よりもネガティブな考えごとのほうがはるかに強い刺激の電気ショックを脳に与えてくれますから、なかなかストップすることができません。
ため息がでたり、強くうなずいたり。心が軽くなるエッセイをどんどん読んでいくと、『書く/読む』という章に、こんな一文が。
ウェブログや記事を書くことがありましたら、その際の下原稿の段階は、手書きで書いてみることをお勧めいたします。
他の本でこう書かれてあっても、「へー」としか思わなかったかも。それまでの章ですっかり心を動かされていたから、そうだ、手書きだ、と素直に受けとめられたのでした(単純)。
本によると、手書きを勧める理由は「(高速でキーボードを打ち、高速の思考に支配されたまま書くと)読む側にも有用であるかどうかを推敲することもなく、『自分がただ書きたいもの』が書けてしま」うから。
たしかに、はんぶん自動的に、指先だけで書いているような感覚になる時がある。
いやいやブログなんてそれでいい、自分の好きなように書けばいい、自分以外のだれかに有用である必要はない、というのも、わかる。わかるというより、そういったブログ論に助けられている面もある。
自分だけに有用か、自分以外のだれかにも有用かは、読む人が決めることだし、有用無用を真剣に考えてたら退場するしかなくなる(スーパーGTの感想なんてだれにも求められてないしね)。
でもその一方で、「読む人にとってどうか」という視点を完全になくすのは、こわい。
そんなわけで、いきなりキーボードで書くのをいったんやめて、下書きを手書きしてみることに。
下書きを、ノートに書く。書いたものを、キーボードでぱちぱち打っていく。しょうもないものを「清書」するのは、ちょっとまぬけな気がして、いい気分とはいえない。
ぱちぱち打ちながら思うのは、きれいなフォントで文字が並ぶと、しょうもない内容が、しょうもないこともないような内容に見える、ということ。
しょうもないものを書いているのに、きれいなフォントというだけで、しょうもないこともないものを書いた気になってしまう(特に明朝体はあぶない)。
だからレッツ手書き、と言いたいのではない。自分の書いた文章が、きれいなフォントで打ち出されるとうれしい気持ちになる、それが悪いとは思わないし、思いたくない。ただ、だまされないようにしないとな、とは思う。
下書きの手書き。飽きるまでは、ゆるく続けてみます。目にやさしいことだけは、たしかですし。