3月から4月にかけて、しばらくのあいだ帰省した。
航空券のセール期間でもなかったし、年末に帰ったばかりだから、だいぶ悩んだ。
でも呼ばれているような気がして、チケットをとった。そしたら偶然にも同じ便に叔父が搭乗しており、結局地元まで一緒に帰った (呼んでたのは地元の海とかじゃなくて、叔父だった)。
帰省したら、毎度同じ場所へ足をはこぶ。プール、図書館、海、以上。
いま暮らしている場所にもこれらはあるけれど、プールは芋洗いで図書館は陰気くさく、海は果てしなく遠い。どこへ行っても人でごった返していて、ものすごく疲れる。
田舎はどこへ行っても気分よく過ごせる。ひと気のない広いプール、天井が高く清潔な図書館、すぐ近くにある海。
帰省中、プールには何度か行った。今のところはまだ、25メートルを息継ぎなしで泳げる。やったぜ、という高揚感が、以前より持続しなくなった。いつできなくなるか、そのときのことを考えるようになった (いつまで水着着られるのか問題もあることだし)。
田舎に帰ると、しあわせのハードルが下がる。
読みきれないほどの本を図書館で借りたり、庭に植わった花の匂いをかいだり、あおあおした麦畑のわきを走ったり、そんなことが、やたらしあわせに感じる。
静かな海をじいっと眺めていると、ここで暮らしたいなあという気持ちが、胸の奥からしみでてくる。
しあわせで、なんでもありがたくて、なんでもうれしい。野菜や魚がおいしいのも、海やプールがすぐ近くにあるのも、桜が咲くのも。
4月に入って、ようやく桜が満開になった。帰省とはいえ、日中はふつうに仕事がある。桜が咲いても、うれかれて外へ飛びだしていけない。がまんして働く。
いよいよがまんできなくなると、すきま時間に桜を愛でた。昼休みに桜の名所をドライブしたり、夜桜したり。
短い花見を、何度もやった。ある日には、キャンプ椅子と食パンを車につみ、川辺に椅子をおろして食パンをかじりながら桜をしみじみながめた。
ぜいたくだなあ。そう思った。
都会でこんなことはできない。食パンをかじりながら桜を眺めるなんてそんなこと。
都会では恥ずかしくてできないことも、ここではぜんぜん気にならない。生まれ育った場所でなら、本来のびんぼくさい自分でも楽しく生きていけそうな心もちになる。
25メートルを、いつかは息継ぎなしで泳げなくなる。水着を着るのだって、本気でためらうようになる。そんなころになったら、わたしはここに帰れるだろうか。
おちる花びらを眺めながら、あれこれ考える。とりとめのないことを考えていたら、食パンがぱさぱさになっていた。
ぱさついた食パンをもそもそ食べ、水で流しこむ。そろそろ仕事に戻らないと。桜から離れがたい、でも、もう行かないと。
最終的に灰になって帰ります・枯れ木に花を咲かせますみたいな妄想がわくのは、やっぱり桜の見すぎでしょうか。