考えることが、わたしは苦手だ。
考えるというより、らちもないぐるぐる思考をくり返すばかりで、このごろはますます頭のめぐりに不安を覚えている。
だからなのか、田舎の図書館で『知ることより考えること』というタイトルを目にしたとき、びびっときた。
本一冊でめきめき考えられるようになるわけもないのに、「もしかしたらこれで……」と本気で思う。で、中身も見ずに借りた(図書館は吟味しないでいいのがいいですね)。
中身を読んでびっくりした。
タイトルにひかれて読みはじめたら、思ってたんとぜんぜん違う。そんなミスマッチがごくまれにあるけれど、まさにそれだった。
たいへんなショックをうけた。あんまりショックだったので、メモ帳に書きうつした。
……自分というものがない人ほど自己顕示したがるという逆説が、ここにある。……私を見て。名前を覚えて。それがあれらのブログなる自己顕示の無内容だろう。ただ自分を知らしめたいがために、無内容なおしゃべりを書き連ねるらしいのだが、空しくはないのだろうか。
『知ることより考えること』池田 晶子
メモ帳の字は汚いからそれほどでもなかったけど、こうしてきれいなフォントになると、まあ強烈。
「無内容」。
ショックを受けたのは、自分の書くものを、どこかでそんなふうに考えていたからだと思う。
なんとなく考えていたこと、考えあぐねていたことを、ばしっとわかりやすい一文にされると、あっさり受け入れてしまう。わたしのやってることって、空しかったんだ……みたいな。
こうなると止まらない自己憐憫。わたしの書くものなんて全部中身ないし、ていうかそもそもわたし自身に中身ないしエトセトラエトセトラ。
なにかを書きたいという気持ちが、すっかりしょげかえってしまった。
それでも時間が経てば、ちょっとは気分も変わる。「あれらブログって、どれらブログよ」と、不遜にも思うようになる。
本の発行年を確認すると、2006年。20年前はどうだったか知らないけど、いまどき有名になりたいからってブログをはじめる人はいない。ブログで自己顕示する人もいない。
や、そういうブログがあるとして、「あれらブログ」って世のブログをひとからげにするのはいかがなものだろう。
それに、ブログが自己顕示の無内容ってんなら、SNSはどうなんですか先生。
著者がSNSをどのように断罪しているのか調べてみると、すでに亡くなっていた。
だから、というのでもないけれど、しゅんとして、不遜な気分は消え失せた。
書きうつした文章を、こわごわ、あたまから読みかえす。
「あれらのブログなる自己顕示の無内容」
「無内容なおしゃべり」
著者の言葉は、きびしい。
そして、正論でもある。
なんのチェックも入らない勝手気ままなブログは、いつだって、そんな評価をくだされる可能性の方が高いんだってことを、ちゃんと心にとめておきたい。
そのうえで、そう言われないようなものを書きたいと、思う。
できるかどうかはひとまず置いといて。書く心持ちとして。