もっとぼんやりしよう、むだを大切にしようというエントリを書いてみて、自分がほんとうは、むだをずっと求めていたことに気づきました。
それまでわたしは、むだが大きらいで、日常や仕事からいかにむだを排除するかに心血を注いできました。
有意義なことをしたい。意味のあることをしたい。それこそ、「人生とはいえないような人生 (ヘンリー・ソロー)」を生きたくなかったのです。
そのためにむだは、人生でまっさきに切りすてるべきと思い込んでいました。
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血眼でむだを排除しても、倍速で生きてるみたいな焦りはなくなりませんでした。
そうしてむだを切りすてるいっぽうで、ブログを書いたり、スコーンを焼いたり、キャンドルを灯したりする、いわば矛盾する生活を送る理由も、自分のなかで整理がつきませんでした。
とくにブログは時間がかかります。エントリによってはアホほどかかる。
そんなのでも、熱に浮かされたみたいに「好きで書いてるから」ですむ日はいいのです。
でも、そうでない日、「ほかのことに時間を割くべきじゃないのか」「おまえのやるべきことは、ほんとうにこれか?」ともうひとりの自分に詰問される日はきつい。
なんのためにブログを書くのかについて、なんど考えても、言い訳みたいな回答しか得られないままでした。
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そんなとき「ぼんやりの時間」を読んで、むだがどれほど大切であるかに気づかされました。
そうだ、これだ、これこそわたしの求めていたものだという感覚と、深いレベルの納得。
なぜブログを書くのか、意味はあるのかと問うて答えが出ないのは当たり前でした。
そもそもブログを書くとは「むだ」以外のなにものでもなく、だからこそ必要としていたのです。
むだを潜在的に求めていたこと。ブログが、わたしにぴったり合ったむだのひとつだということ。
意味も意義もない、ただそれだけのことだったのだと、ひとつの答えを得た気がしました。
ブログを書くのはむだ、だから必要なのです。
ブログには、アウトプットによるメリットだけでなく、結果的に自分の思いに気づくといった効果もあります。
だけどそれが目的でなくてもいいんじゃないか、もっと気楽に、むだな時間を取り戻すためだけに書くのでいいんじゃないかと。
なにがむだだ、文章は、言葉はもっと高尚なものだ、ふざけんな……それも真理だと思います。だけどそれで書けなくなったら本末転倒だし、わたしは修行僧じゃない。
こんなん何の意味もない、ブログなんてむだだともうひとりの自分がわめきだしたら、「うるせえ、むだだからやるんだよ」と拡声器で言い返したいと思います。