君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

いつか街ですれ違ったら、お前だってわかる?

その夜、わたしは現実逃避を必要としていた。

翌日から一週間、仕事で強いストレスにさらされる。それはしょうがない。避けようがない。だけどそのためにいま気分が沈むのは納得いかなかった。

シャワーを浴びてよそゆきのワンピースに着替え、キャンドルを灯す。冷えた白ワインとオレンジジュースの飲み物をつくり、音楽を聴きながらそれをちびちび飲む。

しばらくぶりに飲むお酒は、泣きたくなるほどおいしかった。2cmぶんのワインであっさり心がほどけ、夜に溶けていく。

酔っ払って気分のよくなったわたしは、音楽にあわせて適当に踊る。背中にうっすら汗をかくくらい、くるくる回って踊る。ああ、幸せ、幸せ。ひとりって最高。

もういちど恋をするなら、一緒に踊ってくれる相手がいい。年齢も収入も性別もルックスも、どうだっていい。スマホを窓から投げすてて、一緒に踊ってくれさえするなら。

ベランダに出て、ワイングラスを片手に東京の夜景を遠目に眺める。
そういえば昔、こうしたひとりの夜に間違い電話がかかってきたことがあった。すみません、間違えました。その5分後に同じ男からかかってきた。いま、話せる?

わたしたちはいろいろ話した。相手は性的な会話に持ち込みたがっていたけど、ホステス扱いするなら切る、と言ったらしぶしぶ了承した。

彼は仕事で悩んでいた。辞めたいと思ってるけど、苦労して就職を決めたから、踏んぎりがつかない。オレの人生、こんなはずじゃなかったのにさ。
やりたいことはないのとわたしは聞いた。やりたいこと? 相手はおどろいてくり返した。オレ、もう26だよ。それがなに? とわたしは言った。君は若いんだろうな、いくつ? わたしは年齢を答える。彼氏は? いない。つくらないの。興味ない。
君のやりたいことってなに? わたしは答える。マジで? 相手は少し笑う。若いっていいよな、楽しそうでうらやましいよ。

もしもし? 相手の声が携帯越しに聞こえた。
若いっていいよなって、なに? とわたしは言った。あんたがわたしと同じ年齢だったら、いったいなにに挑戦してたっていうの。中途半端に生きてるだけのくせに、ふざけたこといわないでよ。あんたみたいに人生をむだにしてるやつ、だいっきらい。
子どものお前になにがわかる、と彼は言った。オレだって真剣に生きてんだよ。だったらこんな電話かけてないで、さっさと辞表書きなよ。

電話はそこで切れた。放っておいたら、しばらくしてまたかかってきた。

オレだってお前みたいな女、きらいなんだよと彼は言った。わざわざそれを言いにかけてきたわけ? とわたしは返した。
そういう口のききかた、すんなよ。かわいくねえな、ぜったい彼女にしたくないタイプ。どうせ処女なんだろ。そう言うあんたこそ童貞なんじゃないの。処女。童貞。お前なんかタイプじゃない。こっちだって。
わたしたちはえんえん罵りあった。名前もしらない相手と。

お前、名前は? ナオ。普通だな、と相手は言った。オレの名前、知りたい? 別に。
いつか街ですれ違ったら、お前だってわかるかな。

胸が苦しくなった。いつか街でわたしたちはすれ違う。お互いそれに気づく。相手の女を見て彼は、失望の表情をうかべる。想像してたのとちがう、こんなはずじゃなかったのに、と。

あのさ、と私は言う。なにを期待してるかしらないけどわたしはぜんぜんかわいくない。運命の彼女なら他を探して。相手は楽しげに笑った。勘違いすんなよ、会っていっぱつやろうなんて言わない。電話に付き合ってもらったお礼を言いたかっただけだよ。サンキュー、ナオ。もうかけないから、安心しろ。オレもがんばるから、お前も夢を叶えろよ。

電話が切れると、すぐ迷惑電話に設定して電源を切った。またかかってくるかもなんて期待を抱きたくなかった。

飲み物がなくなって、部屋に戻る。冷蔵庫からワインを取りだして底の残りをグラスに注ぎ、立ったままそれを飲む。音楽はいつのまにか止まっていた。

ねえ、名無しくん。夢なんかひとつも叶わなかったよ。笑っちゃうでしょ。あれだけいきがってた女が、あっさり転職して結婚して、どこにでもあるふつうの人生を生きてる。そんな人生をおくるくらいなら死んだほうがましだとか息巻いてたのに、つまらないやつになって、つまらない人生に追っかけられて、ときどき押しつぶされそうになる。

こんなはずじゃなかったのにって。

でもさ、最近思うんだよね。それでもわたしの人生はラッキーだった、そう言っていいんだって。
間違ったほうを選んだことはわかってる。痛いほどわかってる。でもその間違いがなければ、いまのわたしじゃなかった。

ラッキーじゃなかったことは、ひとつもない。ぜんぶわたしが真剣に求めた結果だ。ひとりの夜によそゆきのワンピースを着て踊るこのわたしが、こわれた臓器をひとつ持つこのわたしが、ひとつのこらず自分で選んできた結果だ。

選択の果ての残骸がこの「わたし」なら、あんがい、それも悪くないかなって、いまはちょっとだけ思えるんだよね。

中途半端に生きてるなんて言ってごめん。
あんたの名前、聞いておけばよかったな。会っていっぱつやらないとしても、街で気づかないとしても、二度と声を思いだせなくなったとしても。