君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

「描きたい」以外に、なにも必要なかった

十数年前、銀座のギャラリーで開催された『高田明美原画展』へ行ったとき、先生ご本人とお話する機会にめぐまれた。

ギャラリーに足を踏み入れたとき、壁に飾られた原画よりも、中央の小さなテーブルに立つ女性に目が吸いよせられた。
先生と気づくのに、少し時間がかかった。

先生は数人の女性に囲まれていた。ファンなのか、関係者なのかはわからない。でも、その中へ割っていこうなどという気はとても起こらなかった。

そちらにはなるべく目を向けず 、原画に集中する。絵に顔をちかづけて、線の一本いっぽん、絵筆のあとを目で丹念になぞる。

原画というものをはじめて目にしたわたしは、まず絵が平面ではないことにおどろいた。修正のあとが盛りあがっている。水を吸ってなのか、紙のよれたものもある。

印刷されたものとはずいぶん印象がちがう。なにがちがうんだろう。絵にこめられたなにかだ。熱とか、魂とか、そういった根源的ななにか。

「こんにちは」

はっと振り向くと、小柄な女性が赤ワインを片手に立っていた。先生だ。
すぐに声が出せず、もぐもぐと挨拶を返した。

先生は気さくにいろいろと、それこそなんでも話をしてくれた。わたしのどうしようもない質問にも、笑顔でていねいに答えてくださった。

大好きな先生が、わたしの大好きな作品について、わたしひとりのために語ってくれている。この現実が、苦しいくらいにうれしかった。天にものぼる気持ちとはいうけれど、まさしく天上の時間だった。

先生がワイングラスに口をつけたとき、わたしはせきたてられるように口を開いた。

「先生の絵が好きです」
ひとこと切り出したら、自分を止められなくなった。
「先生の絵は、体温を感じるっていうか……見てるとさわりたくなるんです。そう感じるのは、先生の絵だけです」

脇と背中から、部活中みたいな量の汗がわきだした。言ったそばから後悔した。そうじゃない、そうじゃなくて、もっと……。

先生は酔いから覚めたように、ぱっと目を開いた。
「ごめんなさいね。さわらせてあげられなくって」
いたずらっぽく笑う先生に、わたしは何か安心して、一緒に笑った。

帰りぎわ、相手をしていただいたお礼を言うと、先生がこうたずねた。

「絵は描いていらっしゃる?」

わたしはとっさに「はい」と答えていた。
先生は満足そうにうなずいた。

「絵を描くのって、楽しいですよね。がんばって、たくさん描いてくださいね」

わたしはギャラリーを出た足で月光荘へ向かい、絵を描くための道具を一揃い買った。
熱に浮かされたみたいに、絵の世界へ一歩を踏み入れた。

* * *

それから毎日、クロッキーを描くようになった。
モデルがほかにいないから、恋人を毎日描いた。彼はそんなわたしを不思議そうに見ていた。

べつにクロッキーを描きたかったわけじゃない。絵を描くといえば、美術の時間にやらされたクロッキーしか思いつけなかったし、ほかに方法を知らなかった。

中学で習った「クロッキーは下から書け」を守っていたら、いつも頭部が描けなかった。何回描いても首で切れてしまう。首なしの絵を見るたび、彼は「逆にすごいね」と感心していた。

絵を描きはじめたら、あたりまえに見えていたものが、あたりまえでなくなった。

「人体には直線がない」と気づいたときはおどろいた。人は曲線でできているのだ。
とりわけ耳のカーブの美しさは、歴史的大発見だった。

絵を描くのは楽しかった。彼以外のだれに見せるわけでもない。欲望もライバルもない。創作だとか芸術だとかは知ったこっちゃない、ほとんどひまつぶしみたいなプロセス。

ようやくわたしにも、自分を追いつめないライフワークができたと思っていた。少なくとも最初のうちは。

* * *

あるとき観光地で風景をスケッチしていたとき、外国人にノートをのぞきこまれた。
わたしははっと絵を隠した。自分の絵も、絵を描くという行為そのものも「はずかしい」と感じた。ほとんど反射的に。

基礎も土台もない、へたくそな人間が、なんで絵なんか描いてるんだと。

それから、絵とはなにか、線とはなにか、色とはなにか、赤はなぜ赤なのか、なんのために描いているのか……そんな思いにしばしばとらわれるようになった。

絵を描くよろこびよりも、どこへもたどりつけない無意味さ、みじめさに打ちのめされた。

わたしは描くのをやめた。
クロッキー帳を破りすて、鉛筆やらクレパスやらもまとめて捨てた。
「なんのために描くのか」というブラックホールに、つま先まで飲みこまれたみたいだった。

描く習慣が日常から消えたら、絵にたいする意識もあっさり消えた。結局はその程度のものでしかなかったという気づきが残っただけだった。

芸術には答えも終わりもない。
好きとか楽しい以前に、ある種の狂気がなければとてもやれるものじゃない。「これなしにはとても生きられない、これこそがわたしを補完するものだ」という確信がなければ、だれが骨身を削るものか。

* * *

でも、いまならわかる。
「描きたいから」以外に、なにも必要なかった。

意味、意義、年齢。そうしようと思えば、苦悩はいくらでも増殖させられる。
へたくそ、やめちまえ、恥知らず。
どこまでも追いかけてきてドアを叩く。

でも人生は、あるいはエネルギーというものは、苦悩を断ちきるためだけにあるんじゃない。

先生は「絵を描くのは楽しい」とおっしゃった。いまならわかる。ほんとうに、ほんとうにそれだけでよかった。それを守るだけでよかった。

絵を描くかわりに、いまは文章を書いている。苦悩どもが、また訳知り顔でドアを叩きにくる。わたしはそのたびにうんこを投げつけて追い返す。
毎日そうして格闘しているうちに、いつかきっとちがう声が最後のドアを叩きにくる。

自分を信じるってそういうことじゃないかと、近ごろは思う。

 

f:id:littleray:20211204075621j:plain