問診票を書くのが、若いころは大きらいだった。
いちいち、めんどくさい。いいえ・いいえ・いいえ。「全部いいえ」って項目が、どうしてないんだろうと思う。
しばらくして病を得ると、そうもいかなくなった。病名や「はい」にチェックを入れる、それはそれでめんどくさいし、第一、陰鬱な気分になる。
問診票を書くたび、「全部いいえ」の人を、うらやんだ。うらやみスイッチがいったん入ると、自動的に自己憐憫スイッチもばっちり入る。病気をしたことのない人に、病気のつらさはわからない。食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食べられる人は、それがどのくらい幸福であるかを知らない。そんな言葉を、頭の中で何度だってくり返した。
はじめてマンモグラフィー(お胸をおせんべいみたいにつぶす検査)を受けたときにも、似た思いをした。マンモが「死ぬほど痛い」「涙が出る」「拷問レベル」と聞いていたのに、ぜんぜん痛くない。不遜にも、そうか、健康な人の「痛い」ってこのレベルなのかと思った(これは病気がっていうより、部活で殴られ慣れてたせいか?)。
次の検査を待つあいだにさっそく自己憐憫にふけり、一方で「こんなん、ぜんぜん痛くないもんね」みたいな優越感にひたりもし、そんなことで優越感にひたる自分に嫌気がさしたりもし、忙しいことだった。
何十年経っても問診票は、なんにも変わらない。AIがうんたらかんたらの時代に、えんぴつで塗りつぶすとか馬鹿かと思う。
けれど先日、問診票を書いているうち、ふと違う感慨がやってきた。
わたしが今「いいえ」をつけたこの項目に、「はい」をつける人が、いる。
病歴、手術歴、投薬、そういうの、もっといろいろ書かなくちゃいけない人が、いる。
病気は、つらい。けど、もっとつらい人はいる。はた目にわからなくても、元気げに見えても、体や心がつらいという人は、たくさんいる。
だから自分がいちばんつらいと思っちゃいけないよねって話じゃない。自分のつらさは自分にしかわからない。ときには自己憐憫にひたってもいい。けど、最後のひとつぶには、ありがたいなあを残していたい。
ありがたいなあと言いたい。宗教じみてようが、嘘くさかろうが、お花畑的だろうが薄っぺらだろうが。問診票の「はい」は年々増えていくし、物価は上がるのに収入は上がらないし、うらやみスイッチも自己憐憫スイッチも一生切れない、それでも、そんな人生でも生きていたかった人がいるのを知ってるから。
だいたい、病気もせず、健康にすくすく育っていたら、ひどい生活を屁とも思わず別の病気で死んでたかもしれない、逆に。