書くことは、身体とつながっている。
毎日何かしら書いていると、そんな感覚になる。
身体とつながっている以上、どこで書くかも重要な要素だ。家のテーブルで書くのと、ドバイのルーフトップバーのガラステーブルで書くのとでは、出てくる言葉もぜんぜん違う(はず)。
それなのに、私は家か電車の中でしか書いていない。ドアの外で書こうと思ったこともない。
いけない。このままでは書ける「領域」が、どんどん狭くなっちゃいそうだ。もとからが狭いのに。
積極的に外で書くべきだ。お気に入りのカフェで。知らない街で。
ノートを広げ、ペンを握り、どこでだって書くべきだ。ドバイとか。
なんて熱くなってるころ、タイミングよく「ひとりアフタヌーンティー」の予約を取った。
これでアフタヌーンティー中にものを書くしかなくなった。熱くなりすぎていた私は、このハードルの高さにまったく気づいていなかった。
実験1~アフタヌーンティー中に書く
結果からいうと、まことにひどいものしか書けなかった。
敗因ははっきりしている。場所に、身体がなじまなかったんである。
当たり前といえば当たり前だ。相手は五つ星ホテルのアフタヌーンティー様である。吸い込む空気さえ非日常みたいな場所だ。
場になじまざること山のごとしである。
書くことは身体とつながっている。身体がなじんでもいないのに、ものが書けるわけない。
想像よりずっと高いハードルだった。
なんも書けないじゃん
5ミリ方眼の安っぽいノート (実際安い。60円くらいだった) に、「なんも書けないじゃん」的なぐちをとっかかりに書いた。
「おなかいっぱいでものが考えられない」みたいなことをノート3枚分。我ながらよくめげずに書いたと思う。
まわりから見れば、バラの花びらが散ったムースの甘みと、酸味のバランスについて書き込んでいる食ブロガーに見えたにちがない。というかそう願いたい。
アフタヌーンティー中に書く練習をして、わかったことがふたつある。
場に身体がなじまないと、地に足のついたものが書けない。
お腹がぱんぱんになると、何も書けない。
なんで事前に想像できなかったんだろうと不思議でしかたない。
高級な文章はひとつも書けなかった。でもアイロンのかかった白いテーブルクロスの上でものを書くのが、どんな気持ちを抱かせるかはわかった。
私はどこででも書きたい。それなら、しょうもない文章を書いてもどうとも思わない気骨や寛大さが大事だ。しょうもない文章をたっぷり書いて、いつか何かを掘り出すためにも。
実験2~公園で書く
ホテル近くの公園で、腹ごなしにぶらぶら散策した。
代々木公園ほどだだっ広くもなく、近所の公園ほど小さくもない。ちょっとした散歩には、ほどよいサイズ感の公園だった。
書くのにもってこいなテーブルとイスを見つけて、小一時間ほどそこにすわって書いた。
ペンをとめて顔を上げると、咲きはじめの桜越しに都庁が見えた。咲きはじめたばかりの桜は見事にすかすかだった。
よく見ると、バラみたいな色とかたちをした花が土の上にぼとぼと落ちていた。
きれいな色とは言いがたい小鳥が頭上の枝にとまって、短く鳴いたあとに飛び去った。
三段のケーキスタンドも、純銀のカトラリーも、初摘みの紅茶もない。誰も私に気を払わない。
静かで落ち着いていて、何でも書けそうな気がした。
私は野良犬について書いた。最高にふざけたものを書こうと思っていたのに、二行目から急にものがなしくなった。最終的に私はその野良犬を探し出して、抱きしめてあげなくてはいけないような気分になった。
公園では、比較的自然にものが書けた。アフタヌーンティー中に書いたのよりは、まだ読める。
だけどそれは、アフタヌーンティー中にも書いたから「公園のほうが書きやすい」と感じただけだ。どちらか一方では、場所が自分に与える影響に気づかなかったかもしれない。
呼吸をするように、どこででも書く
べつに出かけなくてもものは書ける。それが書き物の利点でもある。もしかしたら、一字一句同じ文章を家でも書いたかもしれない。
それでも場所が違えば、心持ちが変わる。発想も切り口も文章も、書く場所によって変わる気がする。
ドアの外で書くのに慣れてくれば、「こういう文章を書きたいから、あそこで書く」といった選択もできるかもしれない。選択肢がないよりは、ある方がいい。
私は呼吸をするようにものを書きたい。どこででも臆せずノートを開いて、ペンを走らせたい。
そこから駄文しか生まれなくてもぜんぜんかまわない。
そう、いつかはドバイのルーフトップバーで、夕陽を眺めながら詩のひとつも書くかもしれない。
気の抜けたシャンパンを片手に「野良犬がうんこをふんだ」と。