accessの26、7年前のライブDVD「LIVE ARCHIVES BOX Vol.2」をあまりに見続けたせいか、あるとき突然「accessって、いったい"何"だ?」という根底を揺り動かす問いに直面した。一種のゲシュタルト崩壊である。
あれはHIRO、これは大ちゃんといちおうの認識はできる。でも「accessって "何"?」の声にまったく答えられない。
「accessは二人組で、シンセで、ハイトーンで」、これらはaccessの構成要素であり本質ではない。かといってこの問いを突きつめていくと「どういったいきさつで、この世界は在るのか」的宇宙生成論へ飛躍する。
accessの謎が世界の秘密を暴く鍵になるとしても、私としてはもう少しシンプルに考えたい。
ではaccessをaccessたらしめる "本質" とはいったい何か?
* * *
画面の中でこれほど美しく輝いていながら、彼らからは不思議と「俺様的エゴイズム」や「圧倒的カリスマ性」を感じない。
人を動かすという点において、ある種の「押しつけがましさ」は必須である。しかしどの角度から見ても、彼らから押しつけがましさは感じられない。
以前、彼らが輝いて見える理由について以下のように書いた。
"覚悟"
10代の頃にはそうと気づかなかった、かがやきの理由。彼らがこれほどかがやいて見えるのは、命とプライドを賭けて人生に挑んでいるからだ。
元K-POPファンがK-POPに出戻ろうとした結果、25年ぶりにaccessに帰還した話〈後編〉 - 君は世界に一人だけ
彼らを輝かせている根源は"覚悟"である。私も初めはそう感じていた。しかしだとすれば、もう少し野心めいたものが透けて見えてもよさそうなものである。
しかしaccessのライブ映像からは、ウイ・アー・トップ・オブ・ザ・ワールド的野心や、 "伝説的バンド" のライブ映像で示されるような「圧倒的カリスマ性」を感じない。
ステージの上での彼らは水を得た魚のように、解き放たれた鳥のように自由だ。
音楽以外の要素 伝説や、カリスマや、自己のルックスにさえまったく注意を払っていない。ただ真摯に、目には見えないものを声で、身体で、指先で象り、差し出そうとしている。
身体はステージにあっても、魂はオーディエンスのもとへ飛んでいる。
なんという真摯さだろう。この真摯さ、自由さに胸を打たれる。
このライブ映像から、たしかに何かを見出している。でもそれが何かは分からない。言葉で説明のつかないことが世界にはある。これもそのひとつかもしれない。
うまく言葉にできないままこう考えることにした。言語化できないからこそ価値があるのだと。
それは偶然だった。画面中に起きたハレーションを目にして、あっと声を上げそうになった。
強い光線の中にいる二人が、太陽の中心にいるみたいに見えたのだ。
いや違う。彼ら自身が、膨大なエネルギーを身のうちに爆発させる太陽それ自体だ。
彼らはまるで太陽のように、みずから光と熱を発し、そのエネルギーを全方向へ照射している。
太陽は古くから愛のメタファーだ。ならば彼らもまた、愛の存在であるといえないだろうか。
愛という言葉にたどり着いたとき、深い納得感が生まれた。
愛は一方向のみを照射するケチくさいビームではなく、全方向を気前よく照らし温める太陽そのものだ。
いつまでも同じ場所にとどめようとする非生物的な癒しではなく、この小さな胸の奥に、眠ったままの潜在的な力があることを示唆する救いの光だ。自立と変化を促し、目覚めを引き起こすダイナミズムがそこにはある。
エゴイズム的自我や野心が感じられないのは、そもそもそんなレベルの次元に彼らが立っていないからだ。
覚悟が強い意志から発せられるものである一方、愛は意志や意識などの自発的思考を超えるものである。その意味でaccessは、彼ら自身の意識や存在を超えて、ステージの上で「愛そのもの」へと昇華しているのかもしれない。
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ゲシュタルト崩壊によって析出した「accessって "何"?」という哲学的ともいうべき問いに、いまだ有効的な答えを得ていない。
しかしaccessをaccessたらしめる "本質" の一つは愛だと、今は確信している。
私はaccessの世界観を全体像としてなんとなく、ぼんやり把握しているに過ぎない。むしろ近づくほどに境目や実像は曖昧になり、何も捉えられなくなる。次の瞬間にはもう色を変えてしまう明け方の空みたいに。
彼らの世界観を、過不足のない完全な形で理解することは不可能だろう。でも愛を受け取ることはできる。26年の時を超えて、その手ごたえをはっきりと感じとれる。
「accessとは概念である」 ライブDVDの感想を、こう手帳に書きつけていた。
この言葉を再び見つけたときは「何じゃこりゃ」と思ったけれど、あながち間違いではないかもしれない。
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