君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

かっこいいとかわいいの無限ミルフィーユ/access「LIVE ARCHIVES BOX Vol.2」

accessのライブDVD『LIVE ARCHIVES BOX Vol.2』を毎日見るようになって早2ヶ月が経つ。
26、7年前の映像でありながら、いまだに見入っちゃうし、うっとりするし、「ここよここ」みたいな個所は巻き戻しもする。
まだまだしつこく見るつもりでいるため、「accessのライブ映像視聴禁止令」みたいな法律が制定さたらどうしようと本気で心配になるほどである。

3枚それぞれに甲乙つけがたく、単純にどれが一番などとは決められない。

「感想は」と聞かれたら「最高です!」という、優勝者コメントみたいな言葉しか見つからないディスク1『LIVE REFLEXIONS SYNC-ACROSS JAPAN TOUR '93 ACCESS TO SECOND』。

26年経ってなお、その儚い美しさに胸をしめつけられるディスク2『LIVE REFLEXIONSⅡ SYNC-ACROSS JAPAN TOUR'94 DELICATE PLANET ARENA STYLE』。

accessは概念である」という意味不明な一文を手帳に書きつけるに至らされたディスク3『access Live in Budokan SYNC-ACROSS JAPAN TOUR '94』。

少しは落ち着いた今、何がどう最高なのかを自分なりの視点で書き残しておきたいと思う。

1. 生歌生弾きの破壊力

なんと全編「生歌、生弾き」である。
なんてことをいうと「当たり前だろうが」という声が飛んできそうだ。でもはっきり言って当たり前ではない。ぜんぜんない。
一度「口パク上等」なライブを経由した人間には、高レベルな「生歌生弾き」はそれだけで一つの奇跡だからだ。

まず最初に驚かされるのはHIROのパフォーマンス力だ。
登場から全開という感じで、なにしろ休みなく動く動く。記憶の中にいるHIROの数倍踊っていて、こんなに動いていたのかとびっくりさせられた。しかもあれだけ動いているのにまったく息が切れない。肺がいくつ入ってるんだ的ミラクルである。加えてどんな状況下でも一切ブレない歌唱力。上手すぎて口パクに見えてくるほどだ。

バックダンサーを立てず、全編ひとりで歌って踊っている。にもかかわらず物足りなさを一切感じさせない、驚異的なパフォーマンス力。はだけたシャツからのぞく、サラブレッドのようなからだ。指先まで神経の行き届いた美しい身のこなし    虜にならずにはいられない、おそるべき華やかさである。

一方の大介様は「指何本はえてるんですか」的速弾きが炸裂していて、天使みたいなルックスとのギャップに撃ち抜かれてしまう(ところで彼は笑顔かドヤ顔しか見せてない気がする)。
当時、大ちゃんが弾けるのは "当たり前" で、"そういうもの" だと思っていた。羽の生えた鳥が飛ぶのと同じくらい、生まれながらに備わった当然の能力だと。とんでもない誤りだった。彼は決して、ちょちょいのちょいで弾いているのではない。
ミストーンがほとんどなく、「そんなとこまで弾かなくても」という場面でも弾いている (おそらくKXのバンク切り替えまでおこなっている)。 彼が天才であることに異論はないが、たとえ天才でも相当量を練習しなければあれだけミスのない演奏はできない。当時はツアー中でありながら曲作りも同時進行していたと記憶している。いったいいつ練習していたんだろうと思わずにはいられない。

誤解を恐れずにいうと、彼らの音楽はその特性上「生」にこだわる必要性は低い。やろうと思えば「二人だけ」のステージも可能だったはずだ。どこかアイドル的要素を備えた二人が多少当て振りや口パクでも、客席からは歓声が途絶えなかっただろう。
しかし彼らはドラムセットとギターアンプを持ち込んで、わざわざバンド構成に仕上げている。プライドの証明というか、だからこそ「真っ向勝負してやる」感がびしびし伝わってくる。

大ちゃんの弾いている姿は全身全霊そのものだ。今よりずっとシステムが脆弱だった27年も前のライブで、リスクを負ってでも生で弾いてみせている。誰より可愛いルックスをしていながら、一皮むいた中身は怪物であり勝負師だ。生弾きに対する並々ならぬ思いは、ツアーを絶対に成功させてやるという彼の執念に直結しているかのようである。

2. ザ・ライブステージの勝負感

K-POPのド派手なセットに慣れた目には、当時のシンプルなステージがむしろ新鮮に映る。センターステージもなければ花道もない、大ちゃんが空を飛ぶといった飛び道具的演出もない「ザ・ライブステージ」は潔くて清々しい。

HIROの手に握られているハンドマイクにもグッときてしまう。K-POPのヘッドセットマイクに慣れていると、ハンドマイクの醸し出すクールな「ボーカリスト感」がたまらなくカッコよく見えちゃうのだ。2ndツアーのみマイクが旧式である点も何だかほほえましい。

ノールックでハンドマイクを空中で持ち替える技も見事だが、HIROのマイクスタンド使いも見逃せない。スタンドを両手で持ちあげて歌うHIROはバンドマンぽくて素敵だし、スタンドを倒しつつモニタースピーカーに足を乗せて歌う姿は最高に男っぽくてクラクラする。
ふつうのボーカリストに比べて、彼の運動量はかなり多い。あれだけ動くなら、ヘッドセットマイクという選択もあったのではないだろうか (マイクを持ち替えて踊る場面もあるくらいだし)。しかし彼は一貫してハンドマイクを使用している。どんなに踊っていても、爪の先まで純然たる「ボーカリスト」であると証明するかのようだ。

大ちゃんのブースも、ステージセット同様にシンプルだ。「ライブは自慢大会じゃないから」とシンプルを貫くのが当時の基本方針であったように記憶している。
ちょうど「ステージにシンセを積みまくるのは前時代的」というヨーロッパ発の価値観が日本にも輸入され、国内テクノシーンを牽引するグループのステージもミニマム化されつつある頃だった。最先端の音楽を提示しながら、ステージは前時代的などと評されるわけにはいかない。どのような文脈においてもaccessのステージに「古さ」が持ち込まれるのを、彼は許さなかったのではないか。

最先端はいつか時代遅れになる。accessのステージが時代遅れなものに見えないのは、普遍性の獲得に成功しているからだ。もしも当時のブースに「精鋭中の精鋭」以外のシンセが山積みになっていたら、見え方はまったく違うものになっていたはずである。ステージに対する彼のこだわりは、この観点からも感じとれる。

3.「かっこいい」と「かわいい」の無限ミルフィー

accessのビジュアルの完成度は圧倒的だ。フォーミュラマシンの美しさに世界中のクルマが敵わないように、彼らのビジュアルはまさしく別次元である。実は火星人でしたと言われてもファンはとくに驚かないだろう (納得する可能性すらある)。

「HIROはかっこいい、大ちゃんはかわいい」は「我思う、ゆえに我あり」級の疑いようのない真理だ。彼らのビジュアルを堪能できるこのライブ映像はまさに「かっこいい、かわいい、かっこいい、かわいい」の無限ミルフィーユである。

ツアーを重ねるごとに、彼らのビジュアルは飛躍的な進化を遂げている。
2ndツアー (ディスク1) は気合の入りまくったHIROの初々しさがたまらないし、今や貴重な "茶髪" 大ちゃんの超弩級な可愛さが爆発している。天使の採用面接を受けたらその場で幹部候補として採用されるに違いない。

3rdツアー (ディスク3) のビジュアルは一気に近代化が進む。3年くらい経ったのかなと思ったら、なんと1年も経っていない。衝撃以外の何ものでもない。
あんなに初々しかった気合MAXのHIROが、たった1年足らずで余裕と自信とを備え、曲によっては時折いたずらっぽい表情さえ見せる。これまでに獲得してきたものの大きさを伺わせる進化ぶりである。
前ツアーでは幹部候補だった大ちゃんが、突然のクールビューティー化を果たしているのも大きな驚きだ。もうちょっとやそっとでは笑顔を見せてくれない。ずいぶんとサディスティックな方向転換と言わざるをえない。おかげで前触れなく笑顔を繰り出されると、その落差にドキッとしてしまう。思うつぼである。

アリーナスタイル (ディスク2) の二人に至っては、何か神々しさまで漂わせている。大ちゃんはTMNのサポート時代からの進化を考えると、ほとんど別の生物のようである。神に近い何かがAIに降臨してヒト化したみたいな、神聖性と無機質さを同時に兼ね備えた存在を体現している。
一方のHIROはAI大ちゃんとは真逆のスタンスをとっている。ナチュラルなヘアスタイル、パフォーマンスもより自然なものへとシフトされている。

HIROはこれまでもシャツのボタンを大全開にしがちだったけれど、個人的にはセクシーとは少し違う印象を抱いていた。彼からはセクシーよりも「解放感」「自由さ」を感じる。シャツのボタンを開けた数だけ彼は自由になる    そう思っていた。

しかしこのアリーナスタイルで、そんな悠長な印象を持つ人はあるだろうか?
大ちゃんのビジュアルの進化同様、HIROも大きな変化を遂げている。明らかにビジュアルのステージが違うのだ。アリーナスタイルのHIROは匂い立つような色気を備えている。もはや彼の肌に張りつく髪さえ色っぽい。
そんな凄まじいほどの色気を備えたHIROがシャツのボタンを外すと、裸になるよりずっと性的になる。彼がひざまずく二人のパフォーマンスは、そんな無防備な危うさがきわまってほとんど扇情的でさえある。

アリーナスタイルは「無機的存在の大ちゃんと有機的存在のHIRO」という両極端なビジュアルだ。これほど両極端でありながらちぐはぐな印象を与えず、それぞれの個性を担保したうえで相手を引き立てている。
当時のaccessの最終章を飾るにふさわしい、まさに奇跡的なビジュアルである。

4. 赤旗中断級のゼロ距離

accessを見ていて、ほとんど忘れかけていた真理    「二人組という形態がいかに最強であるか」を痛烈に思い出した。
K-POPの「いっぱい人がいる」状態に慣れていると、「お互いしかいない」状況はそれだけで事件である。K-POPでもアイコンタクトや絡み的パフォーマンスは発生する。しかしあれだけいっぱい人がいると「誰が/誰に/何を」が同時マルチ的に発生し、分散するだけ濃度も薄まりがちだ。

一方accessの場合、アイコンタクトも絡み的パフォーマンスも、対象は一貫して「ただ一人のみ」となる。「誰が/誰に/何を」が双方向でしか発生せず、最終的に「トラが木の周りをぐるぐる回ってバターになりました」的濃度に達する。ステージパフォーマンスと理性では分かっているのに、そのトラバター的濃度にいつもドキッとさせられてしまう。

この世のすべての二人組グループを知ることはできない。そのため世の中の他の二人組と、accessとの相対的な比較は不可能である。しかしあえて言うなら、ライブ中に発動する「ゼロ距離」のゼロぶりはあまりにもゼロすぎやしないだろうか。レース中のレーシングカーなら即大破の赤旗中断レベルである。「そんなにお近づきになられては相手様が弾きづろうございます」という進言が出なかったのか心配になるほどだ。

私なんかは思うのだけど、彼らが「昭和40年代生まれの日本人男子」である以上、その遺伝子に組み込まれた「日本人男子的シャイ感」の完全排除は不可能ではないだろうか。事実、非ライブで想定外のアクションが発生した場合には、そのような照れや恥の大部分を押し殺しているようにも見える。

ステージの上での彼らはいたって自然に、あるいは必然的にニコイチ化している。一方、ステージから降りて日常的なテンションとなった時、隠しようのない「日本人男子的シャイ感」を垣間見せるときがあった。ライブ/非ライブを問わず "過剰なスキンシップ" が常態化したK-POP流のファンサービスに慣れた目には、access二人のライブ/非ライブにおけるギャップはわりに大きなものに映る。仲の良さに変わりはないが、ライブ中に感じさせる "赤旗中断級の危うさ" は伺えない。

しかしだからこそ、全感情が突き抜けるライブにおいてのみ、彼らが自己のすべてを解放させた結果として、純度の高い「ゼロ距離」が生まれるのではないだろうか。
感受性を全開にした彼らに、照れや恥などの些末な感情は生じない。私の胸がどうしようもなく高鳴るのは、精神が高次元に達した彼ら二人の、自も他もない、あるがままの魂の開示と交換を目撃しているからに他ならない。

5. だから人生は美しい

私は『LIVE ARCHIVES BOX Vol.2』を飽きることなく見ている。おかげで、気がついたら番組録画のHDDがいっぱいになっていたほどだ。

何度見ても、大ちゃんは可愛い。本当に可愛い。たとえば新しいワンピースを手に入れても、本当に胸が高鳴るのはせいぜい数日だ。でも大ちゃんは何回見ても、心の底から可愛いと感じる。
HIROは「かっこよくない瞬間」がない。コマ送りで全キャプチャを網羅しても、かっこよくない瞬間を切り取ることは不可能だろう。どうでもいいが私は『PINK JUNKTION』の、狂気につま先を突っこんだみたいなジョーカー的HIROが世界で一番好きだ (『STONED MERGE』〜『SILVER HEART』の流れと衣装が私のbest of HIROである)。

あらためてaccessの完成度におどろかされる。何度見ても、ここはちょっとねと思う瞬間が一瞬たりともない。そもそも見飽きさせないのが凄い。同じディスクを連続で見ても、画面に視線が吸い寄せられてしまう。そして何度も同じ言葉をつぶやく。「かっこいい」「かわいい」と、まるでそれしか言葉をインストールされなかったロボットみたいに。

だから考えずにはいられない。このまま、あと一年、いや半年でも活動を続けていたら。
3部作で明らかに別フェーズに突入した勢いそのままの「次」は、いったいどんな楽曲が、アルバムが生み出されていただろう。きっとドーム公演も夢ではなかったはずだ、と。
ドームは音が悪い。きっと大ちゃんの納得のいく音にはならない。そしてドームでやるなら、さすがにバックダンサーなしでは場と間が持たない。それをファンがよしとしないかもしれない。

わかっている。これは全部「すっぱい葡萄」だ。今さら考えてどうにかなるわけでもないのに、二人のドーム公演を夢想してしまう。こうした切なさを抱いてしまうのも、彼らが大きな可能性を残したまま幕を引いた痛みが、映像と、そして私にも残されているからだ。
誰しも叶わなかった思いや夢がある。だから人生は儚く美しい。私は当時の彼らをもってして叶わなかったものに、あるいは自分を重ねているのかもしれない。



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