君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

元K-POPファンがK-POPに出戻ろうとした結果、25年ぶりにaccessに帰還した話〈後編〉

~前編のあらまし~
5年前まで好きだったK-POPグループのライブDVDを見て、K-POPへの出戻りを決意。
しかし最新アルバムがまったく心に響かず、出戻りに苦戦する。
そんな中、偶然見たTMNのライブ映像で"大ちゃん"を発見。中学時代を捧げたaccessの存在を思い出し、さらに当時のライブがブルーレイで蘇るという情報を手に入れ…

littleray.hatenablog.com


〈後編〉[25年越し] accessに帰還編

4. あらゆる衝撃のすべてを超える存在

2020年7月14日。帰宅すると、郵便受けに「LIVE ARCHIVES BOX Vol.2」が届いていた。予約してからというもの、ものすごくワクワクしながら待っていたaccessのライブDVDである。
届いてしまったら、もう週末までなんて待っていられない。私は夜中にこっそりディスクをデッキに入れた。

この後、自分の内部で起こったことを私は忘れられない。

accessのライブDVDを観る前と後では、心のありようがまるきり変わっていた。それはK-POPのライブDVDで得た"癒し"などという受動的で消極的なものとはまったく違う、自分が新しく生まれ変わったかのような、想像もできなかったほどの大きな変化だった。25年も前のライブDVDを見て、まさかこんな変化が起こるなんて夢にも思わなかった。

accessのDVDは、それほどに深いカタルシス (浄化作用) を私にもたらした。

彼らとの再会で、まず最初に「音楽がすべて」という自分にとって第一の価値基準が蘇った。
音楽こそ、みずからの直感や感受性のみによって判断されるべきで、最先端であるとか、まして金がかかってるからえらいといった低次元な価値基準であるはずがない。私は「わたし」の世界でもっとも尊ぶべき自分の直感や感受性をないがしろにして、別の価値観を植えつけてねじ曲げようとした。これは心の暴力であり、迫害である。そのような行為をほかならぬ自分自身に対して行っていたと、私はaccessのライブ映像を見る瞬間までまったく気づいていなかった。

音楽以外の理由で本人たちを愛するなんてできない。この時ようやく、K-POPに出戻れない理由を理解したのだった。

画面の中の彼らは、神聖な希望を示す”ベツレヘムの星”のように内側から美しくかがやいている。この理由について、『音楽に一生を捧げる覚悟が彼らを輝かせている』というDVD付属のライナーノーツの一文が、ストンと胸に落ちた。
"覚悟"   10代の頃にはそうと気づかなかった、かがやきの理由。彼らがこれほどかがやいて見えるのは、命とプライドを賭けて人生に挑んでいるからだ。ライブ映像に心を奪われながら、私はそんな思いにとらわれた。

それが引き金となり、ほとんど忘れかけていた私自身の"思い出したくない過去"がいきなり噴き出してきた。突然感情の蓋が開いたみたいに。
"怒りや哀しみの表出は深い浄化作用の正当な心理プロセス"だと後になって判明したけれど、そんな作用なんか知る由もない私は混乱したし、かなりきつい思いをした。胸の中に立ち現れた内省が、思いがけない方向へ否応なしに進行していく。あらゆる形の怒りや哀しみに襲われ、自責の念に駆られて後悔に押しつぶされそうになる。私は人生を賭けもせず、結果何もなし得られなかった。こんなはずじゃなかったと、過去から罵り声が聞こえてくるようだった。
そして私はもう一つの小さな声にも気づく。"今"を失ってでもやり直したい過去なんか一つもないよ、と。

何とかこの日までを生き延びてきた。色んなものをくぐり抜けて。そして再びaccessのライブ映像を見、あの頃以上の衝撃と感動を感じている。
私の核は25年前と何も変わっていない。あの時と地続きのまま、今を生きている。私の純粋性も、感受性も、直感も死んでなんかいない。

たかがライブDVDで、と笑う人もあるだろう。そう、たかがライブDVDだ。しかしその薄い円盤に深く精神を救われ、人生観を揺るがされる人間もいる。自己を長年形成していた有象無象の付着物が剥がれ落ちて、「もとのわたし」に再会する人間もいる。
「心を掴まれる」という表現が、まさしくこの体験のみを限定するなら、私はこの25年間、ただの一度も心を掴まれたことはなかった。accessは私の知りうるあらゆる衝撃のすべてを超えていた。

この地上で、彼ら以上に美しい生物が存在するだろうか。どれほど言葉を尽くしても、彼らの凄さのすべてを表現することはできない。少なくとも私は、心からそう思える存在に出会えていた。それだけで十分、幸運な人生と呼んでいい気がした。

私はaccessとともに「わたし」に再会した。すぐそばにいたのに、何十年も無視し、黙殺してきた「わたし」。そんな「わたし」が存在していたことを、accessのライブ映像が初めて教えてくれたのだった。

5. レッテル

こんな境地に至りながらも、accessに出戻るという選択肢は生まれなかった。私が衝撃を受けたのは25年前の彼らだ。今の彼らにそれを求めることはできない。なぜなら私自身が過去に執着しているからだ。

そればかりか、今のaccessを何一つとして知らないのに、勝手なレッテルを貼りつけてさえいた。「当時の二人とは変わってしまってるはず」という、どこから生まれたかもしれない勝手な思い込みだ。
今のaccess (特に大ちゃん) はマリオが"スター"を手に入れたみたいに、何か「スター状態」に突入しているイメージがあった。昔の彼は「頭の中で鳴ってる音を出すためには、きわめて非効率としかいいようのない手法で音を作ることもいとわない」というような、良い意味でだいぶ変態だった。今はもっと効率的かつ生産的に音を作っているだろうし、その気になればいつでも、2秒で曲を作れますみたいな境地に到達している気がした。

曲作りのプロセスなど、当人以外はどうでもいいはずである。苦悩のみが作品のレベルを押し上げるのではない。それなのに私は「曲そのもの」ではなく、最終工程に至るプロセスや、より根源的なものに対する疑念を抱いてしまった。何の理由もなく、ほとんど自動的に。

K-POPに出戻るには、YouTubeでも見て笑って、楽しく消費すればなんとかなるかもしれない。かつて心の隙間をそうして埋めたように。
でもaccessはそうはいかない。彼らの音楽に根底を覆されないかぎり、出戻りは絶対にありえない。K-POPのときはウキウキで曲を聞いたのに、accessを聞くのはためらわれた。だって相手は"あの"accessである。はんぱなポップソングとはわけが違うし、そうあってはならない唯一の人たちだ。

彼らのフェーズははるか彼方へ移行しているだろう。今もって「フェーズ1」に感動している自分に、以降の曲を受け入れられるとは到底思えなかった。
過去への執着が、私の内部でいつしか最終兵器化していた。こんな心境ではどんな曲も正当に判断できないし、容認できない。

6. 一体なんなんだ、これは?

2020年8月。その日は休日にもかかわらず、朝から仕事の資料作りに追われていた。ため息まじりでPowerPointを操作しているうち、ふと「access聞こうかな」という気持ちになった。

聞いてみようと思えるまでに、じつに2週間もかかった。K-POPに出戻ろうと画策していた頃に比べて、はるかに高いハードルを課していると自分でも理解していた。
Spotifyのライブラリから「Heart Mining」を表示する。過去を超えてほしいなんていわない。ただ落胆だけはしたくない。複雑な心境のまま、私は再生ボタンを押した。

初回、私は曲の評価がほとんどできなかった。なぜならHIROの歌声に衝撃を受けたからだ。
HIROが、あまりにもHIROだった。HIROが今、こんな声で歌えているなんて思いもしなかった。25年前のライブ映像を毎日見ている人間が「全然変わってない」と感じるのだから、単なる素人の見当違いではないはずだ。
そりゃ、波形レベルで比較して「このスペクトルのエネルギー分配状況がうんぬん」などという次元で反証されたら「はあ、そうですか」という気はするだろうが、それよりずっと大事なのは私の直感である。直感的に"すごい"と感じた、それがすべてだ。

決して悪くはないけど、最高かと聞かれるとそうとは言えない。「Heart Mining」のファーストインプレッションはそんな感触だった。
けれど少なくとも「このアルバムを聞く時間を私の人生から捻出できない」的ソリッドな感想は持たなかった。初期3作とは遠い感触を持ったにもかかわらず、なぜかまた聞きたくなったのだ。
私は首をひねりながら再生ボタンを押す。二度、三度、四度。ファーストインプレッションこそ"Not bad"だったが、聞くたびに私の中で何かが変わっていく手応えのようなものがあった。
結局、この日は仕事をしながら真夜中まで「Heart Mining」を聞いていた。一日中聞いても飽きない謎の中毒性。一体なんなんだ、これは?

理由が分からず、でも聞かずにはいられなくて毎日聞き続けた。電車の中で音楽を聞かないタイプの人間が、イヤホンを買い求めて電車の中でも「Heart Mining」を聞くまでになった。そして家に帰ったら寝るまで、飽きもせずに「LIVE ARCHIVES BOX Vol.2」を見た。

出戻るなんてつもりはなかった。それなのに私はいつしかK-POPを忘れてどっぷりaccessに浸かっていたのだった。

7. 私の求めていたもの 〜茹でダコの覚醒

ある朝、電車に乗り込むといつものように「Heart Mining」を再生した。珍しく本を開く気になれず、ぼんやり窓の外を眺める。何かを考えるともなく考え、「Cassini」をじっと聞く。本を読まないこと以外、いつもと変わりない朝だった。

3週間も毎日アルバムを聞き込んだら、少しは「出戻ろう」という気が起こると思うのだけど、なぜかビッグウェーブは現れなかった。これがK-POPだったら、今頃ファンクラブの会員カードが郵便受けに届いていたかもしれない。

いや、そもそも出戻る・出戻らないの二元論的な考えを改めるべきだともう一人の私がいう。べつにファンでなくともアルバムは聞けるじゃないか、と。しかし私はこの二元論的な答えこそ出すべきと考えていた。これはもはや人生に対する態度に関わる問題だ。

アルバムが好感触であるにも関わらず、彼らへのレッテルは完全には消えず、頭の中にしぶとく居座り続けていた。"マリオのスター"を手に入れた彼らは、もうとっくに安住の星へ着地して、そこで楽しく音楽を作っているんじゃないか。もはや渇望感なんか消えてるんじゃないか。またいつか解散するんじゃないか…。

でも、と私はさらに考える。本当に二人の根源的な何かが変わっているとしたら、これほど中毒性の高いアルバムになり得るだろうか?

あるいは、二人は"マリオのスター"を手に入れたかもしれない。あらゆる活動の果てに。でも少なくとも、それを使ってaccessのアルバムを作ってはいないのではないか。
聞き込んでいくほどに、私には彼らが、自分たちの世界観を追求しているようにしか思えなくなっていた。歌声に、音の細部に、それを感じ取ったとき「まだ追求してたのか」とショックを受けたほどだ。

もしかしたら、時を経て彼らのフェーズがどれほど移行していても、根底にある音楽に対する姿勢   新しい世界観を構築し、提示し続けるパワフルなモチベーションはあの頃から全然変わっていないのかもしれない。
世界観の追求の果てにある、替えのきかない圧倒的なオリジナル性。そうだ、それこそ私の求めていたものじゃないのか。
彼らに対するレッテルは、私自身の"過去の執着"が生み出したヘイトスピーチだ。昔と今の差分をあげつらうために、私はこのアルバムを聞いてるんじゃない。

「Vertical Innocence」が流れる。予兆なく、ふいに胸がつまった。サビに差し掛かると、胸につかえてたものがせり上がってきて、唐突に目に涙が浮かんだ。

私は理由なく泣いたりしない。霊感体質でもなければスピリチュアル体質でもない。ストレスもなく、精神はこれ以上なく落ち着いている。だから自分に何が起こったのか分からなかった。
マスクの位置をずり上げ、窓の外に目をやったまま何でもないふりをする。仕事のTODOリストを数えて涙を引っ込めようとする。でもだめだった。溜まった涙が流れると、得体のしれない幸福感のようなものが一気に胸に押し寄せてきた。心の奥の深い場所、誰にも明け渡せない精神の深部に暖かな光が流れ込んでくるみたいに。

私の細胞には、初期3枚のアルバムが刻み込まれている。それとは別の次元で、「Heart Mining」もなくてはならないアルバムとなった。だったらもう、ビッグウェーブなんか来なくたっていいじゃないか。水から茹でられたタコが、気がついたら茹でダコになってたみたいに、無自覚なまま育つ愛もある。

あの頃の二人が今も活動を続けている、それ自体が奇跡だと今は思える。
いつか彼らが解散したとしても構わない。永続的に保証された関係はどこにもない。「100%を出し合える相手」がお互いであることが、今日まで続いてきたに過ぎない。彼らの「今この瞬間」の関係は、だからこそ奇跡的だといえる。だいたい来るかどうかも分からないXデーに、今から怯えてどうする。

その日が来ようが来まいが、私の行くべき場所はもう他にない。

8. 恋をとめないで

私は水から茹でられたタコのように、ゆっくりゆっくりと、ほとんど無自覚なままaccessに帰還した。
おかしなもので、「accessが好きだ」と自覚的になったとたん、いきなりビッグウェーブがやってきた。想像以上の深さで、すでに彼らを好きになっていたのである。

25年も経てば、ルックスの変化は当然感じる。だがそんな変化さえ、走り出した恋を中断させることはできなかった。
彼らがお互いを当時のまま呼び合っている、そんな姿を見ただけで恋はローギアから突然トップギアに入った。25年ぶんの周回遅れが今やフルスロットル状態である。

これほど混じりけのない、純粋すぎる「好き」の正体が知れなさすぎて、気味が悪いというか、若干の恐怖さえ感じる。彼らに恋心を抱く論理的な理由があるなら、逆に教えてほしいとさえ思う。どうして私はこんなに二人が好きなんでしょうか先生?
だけどもう仕方がない。"Don’t stop my love" とその昔誰かが歌っていた。恋は、たやすく止めてはいけないのだ。

25年越しにまたaccessに恋するなんて、いまだに自分でもちょっと信じられない。だけど今の自分は嫌いじゃない。HIROのツイートにぱっと笑顔になっちゃう自分も、ぜんぜん悪くない。

人生は本当に、何が起こるかわからない。



♡ご意見・ご感想をお待ちしております→Twitter

[関連記事]

littleray.hatenablog.com

littleray.hatenablog.com