観おわったあと、幸せな気持ちになる作品は、いろいろある。そして、それらの作品はたいてい、わかりやすい。
舞台「メディスン」は、わかりにくい。わかりにくいけれども、終演後、とても幸せな気持ちになった。だれかと無言で夕日を眺めた記憶が、親密で、満たされた時間をすごした記憶が、わたしにもあったような気がした。
* * *
舞台「メディスン」は、アイルランド生まれの劇作家、脚本家のエンダ・ウォルシュの最新作。
出演者は3人の俳優と、1人のドラム演奏者のみ。「不安とユーモアの入り混じる難解作」というふれこみだ。
脚本:エンダ・ウォルシュ
演出:白井 晃
翻訳:小宮山 智津子
出演:田中 圭 奈緒 富山えり子 / 荒井康太(Drs)
病院らしき施設のなかの部屋。
パジャマ姿のジョン・ケインが入ってくる。
そしてまもなく、ドラム奏者、
メアリーという名前のふたりの女性、
老人と巨大ロブスターがやって来る…
「メディスン」は、素直に純粋におもしろかった。
ユーモアがある。うきうきするような場面さえある。
一方で、重い場面や、解釈のむずかしい台詞も、ある。
それでも、すっと心に入ってきたのは、全体を通して緊張とゆるみがほどよく、お芝居がわかりやすいからだと思う。
なのに、素直に「おもろかった」と言うのに抵抗を感じるのは、事前に「難解難解」と聞かされていたせいかもしれない。
主演の田中圭くんも「難解なものを難解なまま、うっすらと輪郭だけ客席に提示する」とコメントしている。*1
とはいえせっかく観劇したのだから、「メディスン」という薬をなんとか飲みこみたい。というわけで難解作「メディスン」を自分なりに、ためつすがめつ考えてみました。
※ 観劇から一週間ほど経過しているため、内容があいまい・勘違い・思いこみ・妄想は多々あることと存じます。あったらごめんなさい。
▼観劇2回目の感想
▼観劇3回目の感想
▼観劇4回目の感想
▼最後の観劇から2週間後の感想
入れ子構造
「メディスン」は、目には見えないけれども、何重もの入れ子構造が成立している。
施設 > 部屋 > 床の枠 > 記憶(過去) > ジョン
この構造が、ジョンを小さな箱に押し込んでいる。自分が押し込まれていると意識下で理解はしていなくても、無意識の底でジョンはこのきゅうくつさに苦しんでいたはず。
ジョンが錯乱したのは頭がおかしいからでなく、過去のトラウマを蘇らせたことで、この構造から出たいという思いが表出したからではないか。
錯乱したように見えるジョンが何度も同じ言葉をくり返すのは、小さな箱の中でフィードバックを起こしたからかもしれない。矢印がどこにも行かないで、自分にまっすぐ跳ね返ってくるような。そもそもどこへ矢印を向ければいいのか、ジョンにはわからなかったかもしれない。
錯乱ジョンを見たとき、不思議と同情心はわきあがらなかった。むしろくり返し叫びまわるジョンをずっと見ていたいような、背徳のような恍惚のような、妙にうっとりとした気分になった。
それはジョンの苦しみでありながら、わたしたちの苦しみであったからかもしれない。わたしたちはあんなふうに叫んだりはしない(たぶん)。だから強いカタルシスを感じて、うっとりとしたのかもしれない。
(もしくは単に田中圭くんが叫びまわるのをずっと見ていたいと思っただけかもしれない。どっちだか自分でもわからない)
考えてみると、演劇中に演劇をする、という点でも入れ子になっている。
「分断」の存在
元バレー部員としては、床のラインはコートにしか見えなかった。コートは、敵味方にわかれる。コートチェンジで位置を入れ替えても、敵味方が混じることはない。
だから舞台上の枠と卓球台は、分断だと思う。分断の存在を、観客の無意識に埋め込んでいるように感じた。
ジョンのいる世界は分断されている。病的な人と、ふつうの人。監視される人と、監視する人。コート枠は、分断をシンプルに示しているのだと思う。
枠や卓球台に最初こそ「あれ?」と感じるのに、舞台が進むうち床のラインなんか忘れてしまう。白いラインはいつのまにか、当たり前に存在するようになる。現実の分断と同じように。
そして脚本を手掛けたエンダ・ウォルシュは、アイルランド生まれだ。
イギリス領の北アイルランドはプロテスタント地区とカトリック地区を隔てる分離壁があり、街を分断している。分断というものに対する感覚も問題意識も、わたしたち日本人とはまるで違うのではないだろうか。
「メディスン」の意味
結局、「メディスン」とはなんなのか。
誰かがそばにいてくれた記憶、ではないだろうか。
メアリーが「わたしにそばにいてほしい?」と聞いたとき、(たしか)「いられる間はそばにいる」といった旨の言葉を、注釈のようにつけ加えていた。
メアリーは永久にジョンのそばにいるわけではない。
というか誰にだって、永久にそばにいてくれる人はいない。
つまりわたしたちに必要なのは、永久にそばにいてくれる他者、ではなく、誰かがそばにいてくれた親密な記憶ではないだろうか。
ジョンのそばには誰もいなかった。人生でもっとも愛情をめぐんでもらいたい幼少期や少年期に、打ち捨てられていた。そんなジョンが親密な時間を過ごしたのが、ラストシーンだった。
ラストシーンで、ジョンとメアリーは椅子を並べて夕日を眺める。分断を示していた2つの四角が、ラストシーンでは2つの椅子として提示される。ジョンはメアリーに救われ、同時にメアリー自身を救う。
並んですわっただけで大げさな、と思われるかもしれない。でも、椅子を並べてすわる、ただそれだけのことが、誰かにとっては一生をあたためる記憶になりえるのではないか。
どんな薬もわたしたちを救ってはくれない。それでも、たとえ小さな箱の中に押し込められていても、誰かと親密に過ごした記憶があれば、ひととき救われる。分断をつくるよりもはるかに簡単に、誰もがそんな薬を生みだすことができる。そんなメッセージがこめられていたかもしれない。
それにしてもうつくしいラストシーンだった。ジョンの満ちたりたような、ちょっと放心したような、やすらかな表情。
ジョンの目には、夕日がほんとうに見えていたのだろうか。
とんでもない解釈
最初は、とんでもない解釈をした。
ジョンはマインドコントロールの被験者であり「メディスン」は人体実験のストーリーというもの。
おそろしいもので、いったんそう思い込んだら「そうに違いない」と自信をふかめた。なんならメディスンの秘密を見つけたくらいに思っていた。
後日、演出家の白井さんのインタビューを読んだらぜんぜん違っていた。びっくりした。ブログに書かなくてよかった。
舞台「メディスン」感想と考察
▼林遣都くんの舞台も観劇しました。個人的にはこちらのほうがむつかしかった。