君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

舞台「メディスン」感想と考察 #3 | 演劇でしか表現できない作品

舞台「メディスン」を、三回も観た。

これまで舞台を一回以上観たことはないし、ライブの参戦だって二回が限度だった。

いくら好きでも、同じものを何度も観たらさすがに飽きる。そう思っていた。

メディスン」がぜんぜん飽きないのは、観るたびに、イメージががらっと更新されるからだと思う。

一回目は、幸福な気持ちになった。生のケイタナカ氏に脳みそが終始興奮して、ほぼそれのみで終わってしまった。

二回目は、どう受け止めたらいいのか、わからなくなった。筋書きをなんとなく把握したら、疑問がどっさりわいた。

そして三回目。
メディスン」が演劇でしか表現できない作品であり、タイトルに痛烈なアンチテーゼが含まれているらしいと、わかった。
それから、「メディスン」のほんとうの恐ろしさも。

わかったけど、「わかった」とする解釈も、まるきり違っているかもしれない。

でも、まるきり違っていても、いい。
正しい解釈があったとしても、わたしはわたしの解釈でいい。
三回目で、やっとそう思えるようになった。

なぜなら「メディスン」について考えを深めるのはとても楽しく、日々の救いになったから。

それだけで、もうじゅうぶんです。

(観劇から一週間が経っており、記憶があいまいです。とくに台詞は三回観ても覚えられず、はげしい誤りが想定されます。ご了承ください)

メディスン」観劇3回目の考察

メディスン」のキーは時間の知覚

なんのために舞台に時計が設置されているのか、疑問だった。

メディスン」には、暗転や舞台転換がない。時計はイミテーションでなく、実時間を刻んでいる。

ならば時計は、舞台で実時間が進行していることを証明するための装置、と考えられないだろうか。

舞台と同じ時間軸で、あなたがたはジョンの物語を目撃するのですよ。わたしたちにそう予言するための。

時間軸の共有が重要だとしたら、時間の知覚が、「メディスン」のキーになるかもしれない。

なぜ時間知覚がキーとなるのか。
主人公ジョンが、時間の感覚を失った人間だからだ。

「部屋が明るいから、季節もわからない」とジョンは言っただろうか。
「部屋」には、二重の意味がこめられている。病室と、精神的な部屋だ。

ジョンはこの精神的な部屋、時間の止まった場所から外に出られない。

「今日の調子はどうですか」「ここに来てどのくらい経ちますか」の問答が何度もくり返され、なおかつ途中から録音に切り替わるのは、ジョンがある一定期間をリピート再生するように生きていることを示している。

感知できない「わたし」

時間が止まっているから、ジョンは「憶えるのが苦手」。生まれたときから19歳までの記憶はおどろくほど鮮明(ジョンが脚色したかもしれない)なのに、入院以降の記憶がおぼつかない。

舞台の序盤でジョンがルームプレートを確認するそぶりを見せるのは、記憶のおぼつかなさ、時間感覚の喪失を表現しているのではないだろうか。

時間の感覚を持たないのは、主体を持たないのと同義だ。「わたし」が感知できないから、ジョンには生の実感を持つすべがない。生の実感を持たないこと自体、理解できない。

だから無意識に「ほかの誰でもないわたし」を求めて、自分の名前をフルネームで口にする。僕の名前はジョン・ケイン。苗字は両親と過去へのつながり、執着の現れではないだろうか。

「わたし」を失ったジョンは、ドラマセラピーという、ショック療法に近い劇薬によってはじめて「僕の頭は、僕のじゃなかった」に到達する。

ジョンの叫びを聞いたわたしたちは、その叫びが、自分の心の底の底にあったことを思い出す。
ジョンはこのとき、わたしたちの代弁者となる。

メアリー2の真実

メアリー2を、誤解していた。

メアリー1と、いわば対極にある人間として、メアリー2を見ていた。

でも違った。メアリー2は、誰よりもはげしい葛藤を抱えてるのではないか。

「子どもパーティ」を思い出してほしい。
メアリー2は「こっちを早く切り上げて、子どもパーティに行きたい」と言った。

ジョンのドラマセラピーは陰鬱で、子どもパーティのほうが楽しいから?
そうではなく、ドラマセラピーを演じるのが、辛くてたまらないのではないか。

メアリー2は本格的に俳優を目指している。
夢の再現を全力で演じる。「よかった」という褒め言葉にぶち切れる。演技のためには固形物さえ口にしない。
二足わらじのメアリー1とは、わけが違う。

そんなキレた本格派が子どもパーティに行きたがるのは、つじつまが合わない。

ほんとうに子どもパーティにが行きたがっているなら、メアリー2の本格派ぶりをわたしたちに伝える意味もない。

ロブスターのかぶりものを着るような見せ物に、メアリー2が心から行きたいなどと考えるだろうか。
ほんとうはドラマセラピーから逃げ出したいんじゃないだろうか。

メアリー1は序盤、「バスに乗ったまま、消えた俳優がいるらしい」と噂話を口にする。それほどドラマセラピーを演じるのは辛いのだ。

メアリー2は「死んだんじゃないの」と興味を示さない。興味のないふりをして、話を終わらせようとする。

「あなたは辛くないの、メアリー」メアリー1はメアリー2に詰めよる。メアリー2は決して辛いなどとは口にしない。なぜならメアリー2は、プロの俳優だからだ。

だからメアリー2にだけ、暴風が吹きつける。あの暴風はメアリー2の内部に発生している葛藤だ。

メアリー2がジョンの物語を無慈悲にどんどん削り、雑に扱ったのは、これ以上感情移入したくないからかもしれない。

メディスン」の恐ろしさ

ジョンには、ちょっと神経質なところがある。だけど意思疎通はバッチリだし、外でもきちんと生きていけそうに見える。病院は、理不尽にジョンを閉じこめているんじゃないか。

そう思っていたのに、ジョンが、じつは入院してから何十年も経っていたと終盤に知らされる。

観客の衝撃の波を受けるように、ジョンは「僕は、どのくらいここにいるんだろう」とつぶやく。

テンプレの「答え」しか許されなかったジョンが、はじめて「問い」を口にする瞬間だ。
問いは、主体を持たなければ発生しない。つまり時間感覚を失っていたジョンが、残酷な事実とともに「今、ここ」を取り戻した瞬間でもある。

そして「誰も聞いていなかったんだ」と、夢から覚めたようにジョンは言う。
このときジョンは誰を想定して発語したか。病院の医師やスタッフ、それだけだろうか。

観客が聞いている。それなのに「聞いていなかった」とはなんだろう。わたしたちが舞台を観、聞いているではないか。

聞く、とはなにか。ジョンの言葉を、わたしたちはどのように聞いていたか。生身の人間が発語する言葉として、わたしたちはほんとうに「聞いて」いただろうか。「聞いていなかった」とはなにか。

メディスン」の恐ろしさはここにある。観客の変容だ。

「病院に閉じこめられたかわいそうなジョン」から、「重度の精神病を患ったジョン」と認識を変えた瞬間、わたしたちはジョンを見る目を変えてしまう。
それまでジョンの語った物語の解釈を、無意識に変えてしまう。

わたしたちは、それでもジョンの言葉を「聞いた」と言えるだろうか。

何がジョンを救うのか

序盤で、メアリー1は運命論と決定論の話を持ちだした。自由意志は存在するのか、という問いだ。

自由意志は「わたし」がなければ存在しない。主体を失ったまま、ジョンは糸の切れた風船みたいに生きている。

ジョンのような人たちを治せる薬は存在しない。薬や医学では、ジョンは救えない。
タイトル「メディスン」には、そのようなアンチテーゼが含まれているのではないだろうか。

では何がジョンを救うのか。それがラストシーンで提示される。

「わたしにいてほしい、ジョン?」メアリー1はジョンに問いかける。「いられるだけ」
こんな幸福な問いを、ジョンはいままでに受けたことがあっただろうか。
「うん。お願い、メアリー」ジョンはほほえむ。

二人は椅子を並べてすわり、おだやかな表情で同じ方角に目をやる。
舞台はオレンジに染まっている。二人が眺めているのは、抽象としての夕日かもしれない。いや、見ているものが、なんであってもかまわない。なにも見えていなくてもいい。同じ心持ちで、ただそばにいること。今この瞬間を感じること。

ジョンは手をのばし、メアリーの手に触れる。その手を、メアリーは両手でやさしく包む。ジョンはメアリーの顔を見て、また前を向く。
二人はほとんど微動だにせず同じ表情、同じ姿勢でいる。まるでこのシーンが永遠に続くかのように。

ジョンだけでなく、メアリーも、わたしたちも病んでいる。なぜならジョンと同じ問いを、誰もが心の底の底に沈めているから。

自分が自分でない。「わたし」がわからない。そんなわたしたちに必要なのは、「今この瞬間に生きている」と、全身で気づくことだ。

舞台の時計はそのための布石だ。知覚したそばから消える「今」を舞台から呼びかけていた。「メディスン」は、「今」に気づくまでの物語ではないだろうか。

永遠のようなラストシーンで、ジョンとわたしたちは「今、この瞬間」を共有する。

メディスン」を書いたエンダ・ウォルシュは、演劇でしか表現できない方法で、ジョンとわたしたちの魂を癒そうとしたのかもしれない。

メディスン」を3回観て気づいたこと

3回観劇して気づいたのは、お客さんの雰囲気が、けっこう違うこと。

あ、今日はなんか、やわらかいな、と感じると、笑い声が大きかったり、スタンディングオベーションだったり(逆の日もあった。つまり、「硬いかな」と感じると笑い声が控えめで、スタンディングオベーションはなかった。スタンディングオベーションのありなしで舞台の出来ははかれないけれども)。

いっぽうで、舞台の違いはほとんどわからなかった。というか、記憶が上書きされて、前のを忘れてしまう。

だから「何回目がいちばんよかったか」と聞かれても、ぜんぜんわからない。観る側の体調や気分に、大きく左右しちゃいそうな気がする。

単にわたしが鈍感なだけかもしれない。どうしよう。