君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

舞台「メディスン」感想と考察 #2 | 演劇は人を救うのか

小学生のとき、国語のテストで「この時の主人公の気持ちはどれでしょう」とかいう問題で間違えてばかりだった。

子どもながらに傷ついた。大人でも間違えれば傷つく。こんなことに傷つくなんてひまなのかなと思ってまた傷つく。

間違えてるかもしれないけど、二回目を観ての疑問や考察をまとめました。

(例によって、舞台の内容に誤り勘違い妄想等が見込まれます。ご了承ください)

メディスン」観劇2回目の考察

衣装=ジョンまでの距離

二人のメアリーの衣装は、ロブスターの着ぐるみと、老人だった。

これらの衣装が何を示しているか。
おそらく「ジョンまでの距離」だ。

ロブスターは、遠い。
高級品で、そのわりに可食部分も少ない。
ロブスターを食べた経験は、ジョンにはたぶん、ない。匂いや味の想像もできないかもしれない。

一方の老人は、未来(というか現在)のジョンの姿だ。

つまりロブスターのメアリー2は「非・ジョン側」、老人のメアリー1は「ジョン側」を予言している、と解釈できる。

二人のメアリー、人間の二面性

初回の感想で、舞台の白い枠を「分断」と書いた。

分断というより対比、コントラストではないだろうか。

なぜそう感じたかというと、メアリー1とメアリー2が、同じ枠内に収まろうとしないから。

メアリー2がメアリー1の枠内に入ると、メアリー1はさりげなく枠外の音響機材へ。
強力な磁石のおしり同士みたいに、二人はすっすっと離れていく。

ダンスやドラマセラピーでも、二人がセンターラインを越えることはない。立ち位置については細かい指示があると考えられる。
(何回か同じ枠内に収まる場面もある。たとえば「よかった」って言葉が一番嫌いなの、とメアリー2がメアリー1に詰めよるシーン)

メアリーズの立ち位置が重要なのは、真逆の性質を持つ、相容れない二人だからではないだろうか。

そして人間が、どちらの性質もあわせもつ矛盾した存在なら、二人のメアリーはたまたま同じ名前なのではなくて、宿命的に同じ名前であり、「ひとりの人間の二面性」をあらわしているとも考えられる。

つまり、わたしたちはどちらのメアリーになれる。

無関心なまま相手の物語を利用して攻撃もできるし、手を差しのべて、相手の愛の詩に耳をかたむけることもできる。

ドラマセラピー、上演回数年間100回超え

ジョンの言う「一年に一度の大事な日」は、「合格すれば晴れて外に出られるテスト」ではなく、治療の一環としてのドラマセラピーだと思う。

というのも、壁の時間割表に「Drama therapy」って書いてあったから(週3~4回、13時から15時まで ※うろ覚え)。

週3回、ドラマセラピーをコンスタントに実施しても、年間156回。ホリデーシーズンなんかが入る場合、120回あたりが限度か。とすると、患者数はだいたい100人強といったところかもしれない。

それにしてもドラマセラピー実施にともなう施設スタッフのタスク量がはんぱない。こちらについては後述します。

口述筆記の台本

ジョンいわく「ここにはペンも鉛筆もない」。

つまりジョンは、台本の内容を口述したと考えられる。

机の台本に気づいたジョンは微笑んで、そっと抱きしめる。一年に一度しか台本を見ることができないからだ。

それにしても、あの詩的な文章はどうしたことだろう。

愛にめぐまれなかった過去を恨み節で語るどころか、客観的に、明晰に詩的に語るジョンを見ていると、いったいどちらが病的なのかわからなくなる。

わたしが好きなフレーズは「丘の上はきっと雪」。
悲しく残酷なシーンなのに、雪の白さを想像して、一瞬だけ幻想的な感覚になる。この落差、この感覚のゆらぎを起こさせる言葉が、ジョンの語りには散りばめられていたように思う。

過去の苦しみを詩に昇華させるのは、日本人の感覚からは少し遠い。だから「そんな弔いかたがあるのか」と、新鮮な気持ちになった。

メアリー2の暴風

メアリー2が楽屋のドアを開けると、毎回暴風が発生する。メアリー2は壁に吹き飛ばされ、苦悶の表情を見せる。

わたしたちは吹き飛ばされるメアリー2を見て笑う。シリアスな展開が続いてナーバスになりかけていた心が、ふっとゆるむ。

メディスン」にユーモアやダンスが要所要所に散りばめられているのは、わたしたちに一息つかせるためだろう。

一息つくことで、それまでの不条理もなんとなく受け入れてしまう。そして、以降に起こる不条理も受け入れる体勢になっている。いわばノリで。

メアリー2が吹き飛ばされるシーンは、よく見るとおかしな点がある。

ジョンとメアリー1は、吹き飛ばされるメアリー2に気づかない。すぐそばで暴風が発生しているにもかかわらず、そちらに目を向けもしない。

暴風はメアリー2だけに発生する。同じ部屋にメアリー1が入っても何も起こらない。つまり暴風は「メアリー2の個人的な問題」なのだ。

誰もメアリー2の暴風を気にかけない。わたしたちは笑いさえする。他者の苦悩や葛藤が、滑稽に見える。

そして自分の苦悩を雑に扱われたくないと願うジョンも、メアリー2の暴風騒ぎに気づかない。

ジョンを含めてわたしたちは「わたし」の苦悩しか感知できないのかもしれない。

時間の経過(老人の声、夕日)

舞台には時計が設置されている。

時計がある意味について、これという答えが、まだ出ない。

時間といえば、ラストシーンでは部屋がオレンジに染まり、いかにも日没といった照明の演出がなされる。

光の差し込んでくる方向は、部屋の壁ではないだろうか。どこから差し込んでいるのか。とんでもなく大きな窓があるのか。そもそも午後2時半になぜ夕日が落ちるのだ。

どこからか時間の経過がおかしくなった、と考える方が自然ではないだろうか。

どこからおかしくなったのか。ジョンが老人の声を聞き「これは僕?」と認識する場面があやしい。

なぜジョンは自分とは似ても似つかない声を自分の声と認識したのか。なぜメアリー1は即座に「ええ、ジョン」と答えられたのか。

ジョンははじめから老人だったのだろうか。時間の認識が苦手、とジョンは語っていた。19歳で施設に入ってから、時間経過の認識がすっぽり消えてしまったのだろうか。

ジョンが実は老人で、自分だけがいつまでも19歳の姿のままと思い込んでいるとしたら、たしかに病的だ。

だとしても疑問が残る。
老人がメアリー1のような若い女性をリフトできるだろうか。年がら年じゅうパジャマのひよわな老人に、そんな力がどこにあるのか。日ごろ筋トレでもしているのか。謎はふかまる。

ところで、あの卓球台シーンのうつくしさは忘れられそうにない。ジョンが必死に伸ばす手と指。

演劇は人を救うのか

メディスン」の核となるのはドラマセラピー、ジョンの物語の上演だ。

演劇の中で演劇を上演することで、演劇そのものを問い直している、とはいえないだろうか。

というのも、ドラマセラピーがジョンにとってセラピーになっているのか疑問だったから。

演劇とは何か。演じるとは何か。演劇はほんとうに人を救うのか。
やり方を間違えたら、たとえば物語を利用して攻撃したらどうなるか。

演劇は人を救いもし、傷つけもする。その力をどのように行使するべきか、と演劇の中で問うているように感じた。

ラストシーン、わからないままが

ラストシーンで、動揺した。

一回目の観劇で味わった幸せな気持ちが、わきあがってこない。

切ない、とも、胸が痛い、とも違う。
下痢したあとのお腹みたいに、心もとなくて、不安で。

あのとき幸福な気持ちになったのは、田中圭くんを生で拝めたからだろうか。それで「幸福なラストシーン」と勘違いしたのだろうか。ミーハー世界選手権があったらぜひともエントリーして優勝をめざしたい。

それはそれとして、ラストシーンをどのように受けとめてよいかわからない。

メアリー1は序盤で「恋がしたい」と言った。物語が進行するにつれ、メアリー1はドラマセラピーに疑問を持ち、苦しむ。ついにはそれまでの口パクをやめて発語する。ジョンに心を開き、二人は心を通わせる。

シンプルに考えたら、微プラス方向に転じた、といえるかもしれない。
ジョンはメアリー1によって救われ、メアリー1はジョンによって救われた。

でも、それでいいのか。そんなふうに単純化して、まるめようとしていいのか。

ラストシーンではたしかに心の交流があった。あんなふうに、自分の核に根ざすほどの深い交流を、人生でいくつ経験できるだろうと思う。一度でもそんな瞬間があれば、人は生きていけるのではないか。その意味ではジョンは救われたと思うし、そうであってほしい。

それでもあのシーンを単純化して「ジョンが救われてよかった」とするのは、違うんじゃないか。そんなふうに思った。

ただ、わたしに何の能力がなくても、体の一部がなくなっても、だれかのそばにいることなら、できる。そうも思った。

ラストシーンの意味は、いまもまだはっきりとはわからない。一周まわってシンプルに受け取るべきなのか。それとも。

どれだけ考えても、わからない。わからないままが、いいのかもしれない。

素直に観ること

最初に「誤った解釈」と書いた。

いうまでもなく解釈は自由だから、幸福感を得たって間違いじゃない。過去の自分を「ばかやろうめ」と責めるつもりもない。

どう解釈しても間違いではなくて、だからこそ「あなたはどう受け取るのか」と問われている気がした。

演劇は正しい解釈を観客に求める芸術ではない、と思う。

むしろ、「やすやすと解釈などさせるものか」「解釈可能なものは、もはや演劇ではない」くらいの反骨精神をひしひしと感じる。

正しい解釈させたいだけなら、「人を傷つけてはいけません」「パーティをしたら片づけましょう」と貼り出しておけばいいし、不条理を排した、解釈違いの起こりようがない劇を上演すればいいという話になる。

じゃあなんでわざわざ不条理をまぶすかというと、ひとつには、観客にショックを与えて「あれはなんだったんだろう」と考えさせることにあるんじゃないかと思う。

凡庸なメッセージをわかりやすく提示するのではなくて、ぼーと生きていたのでは得がたい「何か」を観客の内部に創りださせること。

創る、というより、わたしたちの奥深くに埋もれている「何か」を掘り起こす、かたくなった土壌につきさす鍬のようなもの。

それが演劇なのかなと、二度目の「メディスン」から一週間が経って、思った。

 

余談/ドラマセラピー実施に伴う、スタッフのタスク量とコストについて

ドラマセラピーの実施によって、施設スタッフの負担が限界を超えている。

だってタスク量が、こんなことに。

▼ドラマセラピー タスク一覧
・患者全員分のスケジュールを作成する(新年度に見直し)
・患者全員分の物語を口述筆記する(外注?)
・俳優/音響/ドラマーへ見積りを依頼、発注
・台本の誤字脱字チェック、編集、印刷、発送
・香盤表の作成
・俳優への当日連絡(電話連絡のみ)
・俳優/音響/ドラマーへの支払い、納品書送付
・報告書作成

これらを患者の人数分だけおこなう。退職者が後をたたず、現場は悲鳴を上げているかもしれない。

ストレスのたまったスタッフは、夜な夜なパーティを催すかもしれない。そしてパーティの残骸をほったらかし、翌日のドラマセラピー対象者にいやがらせするかもしれない。

ところでこのコスト、いったい誰が支払っているんだろう。