君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

幸せへの近道

「どんな願いも、つきつめていくと、かならず『幸せになりたい』に行きつく」と、ラジオで言っていた。

出世したい。きれいになりたい。いいねがほしい。すべての願いは、つまるところ「幸せになりたい」。だから『幸福論』は、幸せへの近道である、と。

わたしはなんでもすぐに忘れてしまうのだけど、幸せへの近道、という言葉はしばらく覚えていた(けちな性分なので、自分がトクしそうなことだけは忘れない)。

後日図書館に行ったとき、「近道」の話を思い出して、哲学のコーナーでアランの『幸福論』を手にとった。ぱらぱらめくって、すぐに棚へ戻した。読む気がまったく起こらなかった。かわりに、やさしそうな「解説本」を借りた。

解説本はやさしかった。でも、アランの言っていることはきびしかった。

不幸になったり不満を覚えたりするのはたやすい。ただじっと座っていればいいのだ。人が自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように。

悲観主義は感情で、楽観主義は意思の力による。

幸福になりたいと思ったら、そのために努力しなければならない。(……) ただ扉を開いて幸福が入るようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみでしかない。

読めばらくちんに幸せになる、どこかでそう考えていたわたしは、これらを読んで本を投げ出したくなった。じっとすわってばかりいた自分を恥じた。

すわってばかりいてはいけない。幸せになるには、「自分の幸福を欲し、自分の幸福をつくりださねばならない」。

アランに言わんとしていることは、すごくわかる。けれども実践するのはむずかしい。
自分の幸福をつくりだす前に、山積みのやらなくちゃいけないことを片づけないといけないから。

そして片づけてる間に人生は終わってしまう。どうしたらええんやと、また本を投げ出したくなった。

帰省中に撮った、海への道

それはそうと、8月9月はきつかった。仕事の心配ごとが積み重なり、夏ばてもあいまって、心身がひたすら重かった。もちろん「わたしなんか」モードにも突入した。

暑さもピークをすぎると、体が少しずつ軽くなり、やっと眠れるようになった。眠れるようになると、「わたしなんか」っていじけることくらい、誰にだってあるよねと思えるようになった。

そして週末の午後、部屋の片づけをしていると、心が軽くなっているのに気づいた。

理由なんてない。なんにも解決してないし、心配ごとも減ってない。やめられるなら、仕事なんか今この瞬間にやめて田舎に帰りたい。

それでも、なぜか、心だけが勝手に軽くなっていた。

意思なんか関係ないじゃん、と思った。

アランの言っていることとは真逆だけど、意思や努力だけで、心を軽くすることはできないんじゃないか。

雨が降ったり晴れたりするみたいに、勝手に重くなったり軽くなったりする。そんな一面が、心にもあるんではないか。もしそうなら、幸せへの近道は、たぶんない。

いつまた重くなるかわからない。せっかく身軽になったのだからと、森林公園へ出かけた。木を眺めながらしあわせー、と口に出して言ってみたけど、ちょっと、うそくさい気がした。

 

 

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