「書く」のコマンドを手に入れてから、日々の幸福度がものすごく上がりました。
なもんで、「おおい、一緒に書こ書こ~~!」ってメガホン持って叫びまわりたいのでございます。
でもただでさえ忙しいのに、そんなしちめんどくさいこと、やってらんねーって話なわけです。
「書くこと」のいったい何が楽しくて、幸せなのか。
どうしておすすめしたいのかを書きたいと思います。
書いてる暇なんてない
しおれてしまったアイビーの葉っぱ。昨日の大雨でうす汚れている窓。処分しなくちゃいけない段ボールの束。浴槽の壁にこびりついた、わけのわからない汚れ。玄関の掃除。ひびの入ったガラスのピッチャー。冷蔵庫の奥で時を刻む、かつて食べ物だったもの。
生きてるだけで、やらなくてはいけない雑事があれやこれやと降り積もります。
興味もない「書くこと」に時間を割くほど、暇じゃない。
めんどくさいし、やる意味もわからない。
そんなものにかまってる時間は一秒だってありゃしないのです。
インプットするほどもやもやする
そのうえ世の中には「これでもか」というほどコンテンツが溢れてます。わざわざ書かなくたって、楽しいコトはたくさん見つかる。
Twitter。Netflixの新作。録りためた番組。YouTube。読書。ラジオ。レース中継……
そうしようと思えば、いくらでも時間は埋められます。人生の自由時間のすべてを、インプットに投下できちゃえる。
だけどずっとそれを続けていると、自分が何を考えているのか、何を核として生きていきたいのか、だんだんわからなくなります。
以前の私は常に焦っていて、ひっきりなしに考えていました。答えを出せないまま、気がついたら別のことを考えてる。何をどれだけ深く考えても、気持ちはひとつも晴れない。
だから何年も、ずううううううううっともやもやしていました。もやもやのない日なんてなかった。エネルギーはすべて、自分を責めることに使っていました。
私はどこまでも自分を失って、どんな音楽を自分が必要としているかもわからなくなっていました。
この重いもやもやが消えたのは、ものを書きはじめてからです。
ものを書くと、もやもやが消える
ものを書くともやもやが消えて、幸せな気分になります。ほとんど麻薬的に。
私はライターでも物書きでも、卵でも鶏でもありません。
時間を切り売りして生計を立てる、ごくふつうの会社員です。
仕事でもないのに、机にかじりついてものを書く理由は「精神的な報酬」があるから。
たった5分でも、書くと書かないでは気分がまったくちがいます。
文章に自信があるからではありません。
まして、世界を揺るがすとんでもない表現が思いついたのでもない。
ノート一冊丸ごと、笑われちゃうくらいひどい駄文のオンパレードです。
でも、じゃあなんで、そんな駄文を書いて幸せを感じるのか?
自分の中から、小さくても何かを生み出している「手ごたえ」を感じるからだと思います。
書いて、心の錨をおろす
書くと、雑音が消えて、視界がクリアになります。
書きものの内容だけに集中しているから、頭の中がしんとする。目をあけたまま瞑想してる感覚です。
へたくそな文章でも気にしません。歴史的大作を生み出したいわけじゃないし、自分をこき下ろすために書いてるわけでもないからです。
頭の中の批判めいた声を全部無視して、とにかく書く。
黙って書いてるうち、批判の声も飽きてどっか行きます。
ものを書くと、ふらふら落ち着きのない心が源流の真ん中に錨をおろします。
自分自身に戻って、自由で大胆で無邪気で無敵になる。プラスチックの剣を拾った子どもみたいに。
そこから生み出される小さな「何か」。
その「何か」を積み上げることで自信を取り戻し、生身の自分を認められるようになりました。
そして少しずつ、今の幸せに気づくまでに変わったのだと思います。
書くことは手段
書くことは手段であって、目的そのものではありません。
書かなくても、絵や料理で人生の目的を叶えているひともいます。100人が100人、書くべきとも思いません。
だけど何か人生に迷っていて、うっすらとでも「書いてみたい」という思いがあるなら、やっぱり書くことをおすすめしたいのです。
心がもやもやして落ち着かない日には、ぜひいちど書くことを試してみてください。
何かが変わる、小さな一歩になるといいなと思います。