君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

東京には、きれいな女の人がいる

「どこから来たの」

渋谷の交差点で信号待ちをしていると、知らないおじさんに声をかけられた。
駅名を答えると、おじさんと地元が近かった。おじさんの駅は、となりだった。

「どこへ行くの」おじさんが聞くので、イチョウを見に代々木公園へ、と答えた。
するとおじさんは、「イチョウなら、明治神宮がいいよ。あそこのイチョウはきれいだよ」と教えてくれた。

ほんとに? じゃあ絶対行きます。そう言うと、おじさんはうれしそうにうんうんとうなずいた。

信号が変わった。おじさんはもっと話していたそうだったけれど、お礼を言って別れた。

 

身長が低いせいか、見知らぬ人に話しかけられることが、ときどきある。

怠りのない、強気そうな顔をしていると自分では思っているのだけど、すきだらけのアホに見えるのかもしれない。

声をかけられた記憶で、いちばん印象に残っているのは、2006年のワールドカップ開催中のこと。

渋谷を歩いていると、背広を着た若い男の人に声をかけられた。

あの、すみません、声をかけようか迷って、でも後悔したくなくて。男の人は早口にまくしたてた。

はあ。わたしは立ち止まって、その人を見た。
たぶん、わたしより少し年上。背は高くない。中肉中背。いかにもまじめそうな感じ。

道に迷ったんだろうな。まかしといて、渋谷はあたしの庭だから。なにも聞かれていないうちから、得意げに心の準備をする。

ワールドカップ開催中の、渋谷である。青いユニフォームの群衆がスクランブル交差点にどっと流れでて、けたたましい音の鳴る笛だか何だかが鳴り響き、やかましいことこのうえなかった。

男の人がなにか言う。
え? わたしは相手の口元に耳をよせた。

東京には、きれいな女の人がいるんだなって、ぼくおどろいちゃって。

びっくりした。目玉がこぼれ落ちるかと思うくらいびっくりした。
顔がかっと熱くなり、なにも言えないまま、男の人をまじまじと見た。

きょう広島から来たんです。出張で。明日、新幹線で帰ります。だから声かけてもしょうがないって思ったんですけど、でも後悔したくないから勇気をふりしぼって、声、かけました。

いやいやわたしより1億倍きれいな人、ごろごろおったやろ。
電車の中で、わたしは冷静に振り返った。

つまり、ころりと引っかかりそうなアホに見えたのだ。でなければ、だれがわたしなんかに声をかけるもんか。全人類を美醜にふりわける法案が成立したら、AIは0.0000000000002秒でわたしを醜判別するに決まってる。

だんだん腹が立ってくる。ふだん褒め慣れてない女なんぞ、ちっと褒めればいちころだぜ、ってか。なにが東京の女だ。こっちは田舎女だっつうの。

ということなのよ。どう思う? わたしは彼氏に聞いた。
彼氏はどっちともとれない曖昧な返事をした。
いや、きみが美しいから声をかけたのさ、とは、決して言わなかった。

 

ワールドカップの時期に、こうして渋谷を歩いていると、この記憶がいやおうなくよみがえる。

思い出しては、「どっちだったんだろう」としばらく考えこむ。
まじだったのか。いちころだったのか。

どっち、なんて、わかりようもない。誰のどんな気持ちも、ぜんぜんわからない。だいたい、まじでもいちころでも、目的はいっこなんだし。

それでも、死ぬまでにいっぺんくらい、まじのナンパをされてみたかったな。いや、この先ないとも限らないか。ないわ。

渋谷をつっきって、明治神宮をぐんぐん歩く。イチョウは見つけられなかった。最後まで行けばあるのかもしれないけれど、やたら疲れたので、さっさと引き返した。ごめんね、おじさん。

 

これは近所です