君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

自分を満たしてくれるもの | 『ブリティッシュ・ベイクオフ』(イギリスBBC)

休日の昼下がり、ソファでじっとしていた。

文句なしの、秋晴れ。夜までに時間はたっぷりある。
なのに、なにもする気になれない。

このむなしさはたぶん、時間を有意義に使いたい、という欲からくるのだと思う。

有意義に過ごしたい。意味のあることに時間をついやしたい。
だけど、どう過ごせば自分が満たされるのか、いくら考えてもわからなかった。

 

一時間くらいぐずぐずして、録画しておいた『ブリティッシュ・ベイクオフ』を再生する。

『ブリティッシュ・ベイクオフ』は、イギリスBBCのお菓子づくりコンテスト番組だ。
テレビはほとんど観ないけれど、この番組だけは一話も見逃すことなく、大事に観ている。

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さまざまなバックグラウンドを持ったアマチュア・ベイカーがケーキやパイなどをテーマに勝ち抜き戦で腕を競うBBCの人気番組。

最初は、「なぜアマチュアのベイカーを?」と思った。
プロの技を競う頂上決戦のほうが、見ごたえがあるんじゃない? と。
でもすぐに、「アマチュアだからおもしろいんだ」と気づいた。

プロでない彼らは、材料を入れ忘れたり、こねすぎたり、焼き時間を間違えたり、ほんらいの実力を発揮できず、ときに散々な作品を仕上げてしまう。

審査員のふたり(メアリーとポール)はそんなミスを見逃さない。
あきらかな失敗作には「最悪という言葉に失礼なほど最悪」とジョークをとばしたりする。

観ているこちらもはらはらする。審査タイムでは「ちゃんと火が通っていますように」と祈る気持ちになる。作品が褒められるとベイカーと一緒に舞い上がり、酷評されると落ち込む。

いつの間にかベイカーたちに共感して、自分ごとのように応援してしまうのである。

コンテスト番組であるから、毎回ひとりかふたりのベイカーが脱落していく。
二度と彼らに会えないと思うと、とてもさみしい。一方的に、友だちのような気持ちになっている。

脱落したベイカーは、さわやかな笑顔で去っていく。
「こうなるってわかってた。当然の結果だと思う。でもベイキングはやめないわ。『ブリティッシュ・ベイクオフ』のおかげで成長できたし、これからも成長できるって信じているから」

『ブリティッシュ・ベイクオフ』に出場しているベイカーはみな、ベイキングが大好きだ。「ベイクで自分を表現したい」「家族や友だちを幸せにしたい」と笑顔で話す。

「コンプレックスがあったの」
あるベイカーが、言った。

「そんなわたしに自信をくれたのがベイキングよ。18歳に戻った気分になれる。世間知らずで、自信満々の年頃にね」

そんな言葉を聞くたび、わたしははっとして、涙を何粒か落としてしまう。

彼女たちは、見つけたんだな。自分を満たしてくれるものを。
大好きといえるものがあるって、すごいことなんだな。

 

ソファから抜けだして、オーブンをあたためる。

小麦粉とベーキングパウダー、砂糖と塩をボウルにいれ、サイコロ状に切ったバターを混ぜ合わせ、さらさらになるまで指先で細かくしていく。

冷蔵庫のすみにあったチョコレートとドライアプリコットを刻み、卵・牛乳と一緒にくわえて、練らないように混ぜる。

台の上でのばし、7cmの丸型で抜き、卵を塗った生地を鉄板にのせて、オーブンへすべらせる。

お湯を沸かして、紅茶をいれる。
茶器を準備しているうち、チョコレートのあまったるい匂いが、小さな部屋を満たしていく。

 

時間のむだ、といえば、そのとおりだ。

お菓子を焼くひまがあるんなら、もっと有意義なことに時間を使うべきじゃないの。べつに、お菓子作りのプロを目指してるわけじゃあるまいし。

何度も、そう思った。

 

お菓子を焼いても、『ブリティッシュ・ベイクオフ』のベイカーたちのようには楽しめない。心も満たされない。

でも、自分の手でなにかをつくることは、いまのわたしにできる、ささやかな一歩だ。

そんな日があっていい。いまは、これでいい。

チョコレートとアプリコットのスコーンは、さくさくとした食感で、おいしかった。