ミカちゃんとはTwitterで知り合った。彼女はあるK-POPグループの古参ファンで、わたしはぺーぺーだった。
ミカちゃんのタイムラインは感じがよくて、愛に溢れている。数千人のフォロワーがいるにもかかわらず、えらぶったところがないのもすごい(わたしだったらぜったい調子にのってる)。
長文のメールを送り合う仲に発展して、2年。ファンミーティングの会場で、ミカちゃんと念願の初対面を果たしたのだった。
ミカちゃんを一目見て、わたしは(あっ、可愛い……)とどきどきした。
パステルブルーの、ふんわりした半袖ワンピースを着た彼女は、夏の終わりの日差しの中で、汗ひとつかかずに立っていた。
多くのファンが憧れる存在。それだけでもスーパーなのに、実際に会ってみたら本人がアイドルみたいに可愛いって、すごいを通り越して、ずるい。
そう言うと、ミカちゃんはぷっくりした頬を赤くして「なに言ってんのー、もう」とわたしの腕を強めに叩いた(見かけによらず力の強い子だった)。
ファンミーティングの感想を軽く話しあったあと、彼女はもじもじしながら「実はね……」と切り出した。
アイドル事務所に応募でもしたの。言いかけて、やめた。ふざけた空気じゃ、ぜんぜんなかった。
「もう、ファンを辞めたの」
ミカちゃんはそう言って、淡く微笑んだ。
えっ、うそ。わたしは反射的に聞き返した。
「ほんと。だから、今日が最後」
信じられなかった。彼女の発信内容からそれらしい匂いは一切感じられなかった。たしかに発信の頻度が減ったと感じてはいたけれど、だれにだって事情はある。
「いや、でも、どうして……デビューからずっとファンだったのに。去年のライブだって、めちゃくちゃ楽しかったって」
ミカちゃんは下を向き、エナメルでできたハンドバッグの持ち手をいじった。ハンドバッグはままごとで使うみたいに小さかった。わたしたちはしばらくそのバッグを見つめていた。
周囲に人がいなくなるのを見はからって、ミカちゃんは声をひそめた。
「ほうれい線に気づいちゃったから」
ほうれいせん。わたしは機械的にくり返す。相手がなにを言っているのか、すぐにはわからなかった。
「サイテーだよね。そんなことでファンを辞めるなんて」
「ちょ、ちょっと待って。ほうれい線って、どういうこと?」
ミカちゃんは言いにくそうに、言葉を詰まらせながら話した。
「飽きっぽいわたしが、5年も同じ人を追ってたなんて、自分でも信じられないんだけど……ずっと彼一筋で、なんてカッコいい人なんだろうって毎日思ってたし、Twitterを更新してくれるだけで、幸せだった」
うん。
「それが、ついこの前……2週間くらい前、かなあ……ううん、もっと前かも。Twitterの写真で、突然、ほうれい線に気づいちゃって」
それで?
「それからだんだん、耐えられなくなっちゃったの。劣化していくのを見るのが」
衝撃だった。
当時のグループはまさに人気絶頂、ミカちゃんのダーリンはまだ25だった。25といったらほぼキッズである。わたしはフォローもできずに、真剣そのもののミカちゃんを見つめていた。
「ほんとは今日も来たくなかったんだけど……チケット代、払っちゃってたから」
欲しくもないものを押しつけられたような表情で、ミカちゃんは言った。迷いのない表情と物言いに、もう、ここまで心が離れているのかとショックを受けた。
「ひどいよね。ひどいってわかってる……でもわたしね、1ミリだって現実を見たくない。夢だけを見ていたいの」
「夢?」
ミカちゃんは淡い笑顔を浮かべたまま、生活の窮状を語った。まるで他人事のような、どこか投げやりな物言いで。ときおり「お先真っ暗」とつぶやくときだけ、笑顔が消えた。
「現実はもうたくさん。毎日いやってほど、思い知らされてるから。虚構でもなんでもいいから、キラキラした部分だけを見ていたいの」
キラキラした部分。わたしはおうむ返しにつぶやいた。それから、ああ、そうだったのかと思った。
アイドルを必要とする人の中には、わたしが想像するよりずっと切実な思いを抱えている人がいる。わたしがその「深度」を知らないだけで。
正気を保つための、もしかしたら生きるほうを毎秒選択するための、麻薬的な何か。世の中にはそれを必要とする人と、そうでない人がいて、彼女は確実に必要とする人だった。
「ごめんね」
「ぜんぜん、そんなの……それより、ハグしていい?」
「うん」
わたしたちはしっかりと抱き合った。これで最後という思いが、ミカちゃんの体にふれたことでこみあげてくる。
ふたりを繋ぐものが、壊れてしまった。いちど壊れたら、この関係は二度と戻らない。わたしたちは経験として、それを知っている。明日になれば、わたしは彼女の「過去の人」になる。
あのね、ひどいなんてぜんぜん思わないよ。仮にそんなこと言うやつがいたら、あたしがウンコ投げつけてやるから。
ミカちゃんが笑って、ありがと、と小さな声で言う。彼女の細い腕に力がこもる。わたしも腕に力をこめる。女の子のからだは繊細ではかない、いつだって悲しいくらいに。
いい匂いがする。なにもつけてないよ。汗の匂い。ねえ、犬みたい、わたしたち。
体を離すと、ミカちゃんは恥ずかしそうに打ち明けた。
「実はね、後輩グループのファンクラブに入っちゃったの」
「ええ? ちょっと早くない?」笑いながら、わたしはわざと意地悪に言ってみる。
「だあって、ぴちぴちなんだもーん」
ミカちゃんは甘えるように唇をとがらせる。ああ、やっぱりアイドルみたい。
わたしたちはくすくす笑いから、最後は涙が出るほど大声を上げて笑った。