手紙を書きたい。
たくさんのすてきな手紙が載ってある『須賀敦子の手紙』を読んでいるうち、手紙を書きたい欲がむらむらっとわいてきました。
いきおいで引きだしから便箋とペンをつかんだはいいものの、ちょっと待てよと。
っていうか、いきなり手紙なんか送りつけたら、はた迷惑じゃ。
いまの時代、手紙はちょっと、もしかしたらかなり、重いんじゃ。
や、返事がほしくて書くんじゃなくて、むらむらきた「手紙欲」を解消するために書くんであって、だから返事はいらないからね、近況はまた年賀状で教えてねと念押ししても、きっと「返事を書かなくちゃ」の罪悪感をもたせてしまう。
そんなふうに、むらむらきてはしょんぼりをくり返し、すっかり戦意喪失してしまったのでした。
つのる手紙欲を、あるときブログに書きました。
ときをおかず、Twitterで知り合ったaccessファンの友だちが、手紙を書いてくれました。
わたしたちはお互いの住所氏名を知りません。友だちは書いた手紙を撮って、メールで送ってくれたのです。びっくりして、鼻から水がたくさんたれました。
「実物はいつかライブで会ったときに」と一度は約束したものの、手紙欲しさのあまり、住所氏名を聞きだしてわたしから手紙を書きおくりました。
手元に届いた手紙は何度も読み返して、うふうふしています。書かれてある内容そのものもうれしいけれど、手書きのきれいな字が並んでいるのを眺めるのが、ほんとうにうれしい。
一字一句、はしからはしまで、わたしのための言葉。それが一文字ずつ、手で書かれてある。スタンプやら予測変換やらのある時代に、なんというありがたさでしょう。うふうふも止まらないというものです。
ある週末の朝、ふと思いたって、昔の友だちに手紙を書いてみました。
書きおえると、なにやらすっきりして、心は晴れやか。ひと仕事やりおえた手ごたえ、というふうな。
手紙というものはかならず一晩寝かせるべし、というのが定説です。だけど一晩も置いたら、うじうじ考えて破りすててしまいそう。うじうじがくる前に封をして切手を貼り、さっさと投函しました。
(数日後に後悔したのは言うまでもありません)
それから週末がくるたび、手紙を書くように。
返事は、来たり来なかったり。来るとうれしいけれど、無理させちゃったかなあと複雑な気持ち。でもやっぱり、素直にうれしい。
「泣きそうになったー。ありがとー」ってメールをくれたのは、もう会えないかもしれない、遠くに住む古い友だち。こちらが想像する以上に、喜んでくれました。
「ありがとう」を言っておきたかったんだな、わたし。ずうっと言いそびれてたから。
手紙を書いて、ひと仕事やりおえた手ごたえを感じたのは、そのせいかもしれません。
ありがとうって書いたら、ありがとーって思ってもらえる。ありがとうの交換会です。
手紙は、ちょっと重い。もしかしたら、かなり。
だけどその重たさも、たまにはいいんじゃない、と思ったりして。
そう言いきかせて、これからもせっせと書きおくります。はた迷惑かもしれないけど。