君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

ささげる

カートをはじめると、生活のすべてが変わります。

その男の子は、少しためらったあとにそう言った。


お台場をぶらぶら歩いていると、「全日本カート選手権EV部門最終戦」の看板が見えた。

カート。ドライバーの卵が乗る、小さなのりもの。
わたしはモータースポーツがだいすきだけれど、カートにも、ドライバーの卵にも、ぜんぜん興味がない。

選手権とやらを素通りして駅へ行こうとしたのに、道をどう間違えたのか、いつのまにかカートコースの外周に出ていた。

と、目の前を、飛ぶようなスピードでカートがつっきった。
ひゅんっ、ひゅんっと、カートがつぎつぎに1コーナーへ飛び込んでいく。

ものすごく、速い。なんならちょっと、こわい。

思わず「はやっ」とつぶやくと、
「遅いほうなんですよ、これでも」
と、左隣から声がした。背の高い、若い男の子だった。

「これで? この速さで?」
「こんなの、ぜんぜん速くないですよ。半分も出てない」

びっくりした。息をのんで、ひゅんひゅん飛ぶカートを見る。いや、めっちゃ速いんですけど。

「路面が、悪いから?」と、聞いてみる。

レース用のクルマは、サーキットのまったいらな路面でこそ、威力を発揮する。いっぽうの一般的なアスファルトはでこぼこしているから、ほんらいのスピードが出せない、ということだけは、知っていた。

それもありますけど、と男の子は首を振って、言った。
「コースが小さすぎるんです。たとえばもてぎなら直線が1kmあるから、120はらくに出る。ここは小さいうえに路面も悪いから、ちゃんと加速しないんです」

わたしたちは少しずつ話をした。わたしの初歩的な質問に、男の子はわかりやすく答えてくれた。
「友だちが、走ってるんです」
話のあいまに、男の子がぽつんと言った。誇らしげでも、悔しげでもない、いたってあたりまえみたいに。

男の子じしんがカートに乗っているかを、聞こうとして、やめた。カートはお金がかかる。才能がありながらあきらめざるをえない、そんな事情がカートには多いと聞く。もしかしたら、乗りたいのに乗れないでいるのかもしれない。

少し間をおいて、男の子は言った。

「EV車だから、音も小さいんです。ガソリン車だったら、もっと音が大きくて、相手の声なんかぜんぜん聞こえないくらいなのに」

EV車。入口の看板に、たしかそう書いてあった。

「音が、ぜんぜん違うんです」男の子はもう一度言ってから、ちょっと迷って続けた。「ぼくのカートは、ガソリン車だから」

あ、と思った。
それならもっと早くに聞いてあげればよかった。だけど、年若い男の子にずけずけと私生活を聞くのは、言うまでもないけれど、相当にためらわれる。

「お金、めっちゃかかるでしょ」下世話なことを聞くと、
「めっちゃくちゃ、かかります。ほんと沼ですよ、沼」
と、はにかんだ。

走行がおわり、静かになった。
会話がとぎれ、わたしたちは黙って無人のカート場を眺めた。

そういえば、男の子は一度もスマホをとりださない。わたしの目をまっすぐに見、はきはきとしゃべる。

カートを整備するのは、大人だ。カートに乗り慣れた男の子は、それだけ大人とコミュニケーションをとるのに慣れているのだろう。

「カートをはじめると、生活のすべてが変わります」
男の子がそう言ったのは、会話がとぎれてしばらく経ったころだった。それまでと違う、力のこもった声だった。
「カートが、人生の中心になるから」

男の子は、あたりまえのように言って、笑った。


「がんばってね」と言って、男の子と別れた。

わたしに話しかけたのは、「ほんとうは、こんなもんじゃないんだ、もっとすごいんだ」と、わかってほしい一心だったのだと思う。カートが、ものすごく好きなのだ。

そんな男の子が、カートに人生をささげる男の子が、いつか、レーシングドライバーになる。

カートの選手権も、観てみたいな。そう思いながら、色づいたイチョウ並木を歩いた。