君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

手紙のように

うつうつしている。

いつだったか、気温が一気に下がってからというもの、うつうつから抜け出せない。

仕事も単純作業ばかりで、つまらない。
かなり、くさっている。

とはいえ、休日にこもってばかりいては、ますますだめになる。
午前中、むりやり自転車をこいで図書館へ行った。

いまは図書館をあまり好きになれない。ということに、本を探しはじめてから気づいた。

図書館は生涯かけても読み切れないほどの本が並んである。なのに、これでも本ぜんたいのほんの一部であって、じゃあその中からいったいどうやって読むべき本を探せばいいのかって考えだすと、なんだか自分がものすごくばかなやつに思えてくる。

うつうつの時期って、頭でっかちになるんだろか。
「なんとなく」とか、直感がうまくはたらかない。
視界いっぱいの背表紙に、よるべなくうなだれてしまう。


夜、借りた本のひとつ『須賀敦子の手紙』を読む。

須賀敦子という名前を、それまで知らなかった。
ではなぜ借りたかというと、背表紙の「手紙」という文字がやさしく感じられたから。そして、ページをめくると活字がほとんどなかったから。
うちひしがれているとき、歌入りの曲を聴きたくないのと同じ感覚だと思う。

アメリカに住む友人「すま」にあてた、直筆の手紙。それらをたんねんに読んでいくと、いろいろな感情がわいてくる。

返事が遅くなった非礼を詫びる書き出しの豊かさに、ほころぶ。
語られる心境の細やかさに、はっとする。
「こんなものを下書きもなしにさらさらと」という才能に、ひれふす。

そして、むしょうに手紙を書きたくなってくる。

その昔、わたしは手紙魔だった。地元の友だちはもちろん、SNSでだって仲良くなれば住所を聞いて手紙をしたためた。

けれどもだんだん、手紙は相手に負担をかけるんじゃないかと思うようになった。

書く側は、書いたことで満足してしまう。いっぽうの受け取り手は、返事を書けないのを申しわけなく感じる。
いくらあつかましいわたしでも、返事の来ない相手にあらたな手紙を送りつける勇気はない。さみしくて、手紙を書けなくなって、ついでにメールを送る勇気もなくなって、多くの友だちと疎遠になった。

だからか、せっせと書かれた直筆の手紙が、とてもしみる。心が明るむ。
こんな手紙を書けたら、どんなにかすてきだろうと妄想する。

手紙のような文章を書けたらなあ、と思う。

読んでくれるひとを傷つけたりしないものを。
(できれば)受け取ってうれしいものを。

 

文章を書くときはひとり。読むときもひとり。

須賀敦子の手紙』は、そんな静かな気持ちにさせてくれる一冊でありました。