お風呂ためたから入りなよ。妹の言葉に、わたしは妹の彼氏に目をやった。
「先に入っていい?」
サトはもちろんどうぞと言った。
サトは明るい色の髪とぼろぼろの手のひらを持つ、美容師の卵だ。サトも、パティシエの卵である妹も、一人前になるために早朝から深夜まで愚痴ひとつ言わず働いている。成人したばかりの美しい二人は、自分に厳しいという点においてどちらもほとんどアスリート並みだった。
「一緒に入れば? お湯も冷めるし」妹がわたしたちを振り返って言った。
「えっ?」サトが聞き返した。「一緒にって、お姉ちゃんと?」
どっちでもいい、とわたしは言った。
「えっ? だって……えっ?」サトは姉妹を交互に見た。茶色の大きな目が、ぽろっと落ちてしまいそうだった。
「先に入るよ」さっさと服を脱いで、わたしは風呂に入った。
湯船に浸かってあくびをしている間にも、「ほんとにいいの? ほんとに? マジで?」と千回くらい確認する声が聞こえてきた。
妹の彼氏なんか男ですらない。ヒトというより、明るい毛色の大型犬だった。こりゃ入ってこないだろうなと考えていたら、扉が開いて「失礼します……」とサトが入ってきた。
サトはタオル2枚を体に巻きつけていた。男がこれほど裸をぴっちり隠す姿を、わたしは生まれてはじめて目にした。
数秒突っ立ったのち、サトはしかたなくタオルをどけてシャワーを手に取った。わたしは湯船に頬杖をつき、その姿を隅々まで眺めた。
「そんな、思いっきり見る?……」
江戸時代の生娘のように胸を隠すサトが、わたしの視線に耐えかねて言った。
「もうちょっとさ、遠慮すんじゃない、ふつう……」
「ほかに見るものがないから」とわたしは答えた。
男というより、思春期の部活少年みたいな体つきだった (サトは元バドミントン部だ)。そして感心するほどきれいな性器を持っていた。そう褒めると、なにを言われたか分かっていなそうな顔でありがとうと言った。
サトが湯船に身を沈めると、お湯が盛大にあふれた。あふれたお湯がおおげさな音をたてて排水口に飲み込まれてしまうと、風呂の中は妙にしんとした。
狭い湯船の中で、膝とふくらはぎが触れていた。サトはちらっとこちらを見て、すぐ目をそらした。
サトは格好いい。これまでの人生で、きっとものすごくモテてきたんだろう。外見だけでなく、中身もよくできている。美しく、誠実で、やさしい。そういう奇跡的な、物語の主人公みたいな子がたまにいる。わたしとは似ても似つかない妹のように。
どうでもいい会話で緊張をゆるめた彼は、目の前の胸を無遠慮にじろじろ見はじめた。人間の女を見るのは初めてみたいな熱心さだった。
そして大胆かつ単刀直入に、女の体にたいする短い所感を述べた。
自分の性的な表現に、サトは体を縮こまらせた。顔は真っ赤で、心なしか呼吸音がおかしい。目なんかちょっとすわりはじめている。おいおいおい。
やばい、お姉ちゃん。サトは自分の体に起きた現象を端的に説明した。マジでやばい。
妹と交代しようか? という提案を、サトは首を振って退けた。あんま、さわらしてくんないんだよと彼は言った。さわられるのがいやみたいでさ……。
わたしは妹とサトに、末永く幸せになってほしかった。だけどそうなるには、どちらも少々ストイックで、まじめすぎた。二人のどちらもが同じ気質だと、ものごとはたいていうまくいかない。
疲れてるんだよと私は言った。それしか言いようがなかった。わかってるよとサトは言った。でもオレにだって限界がある。ナオちゃんならわかるでしょ?……
男の限界がわかるわけもないし、わかりたくもない。わたしはものわかりのいい姉の顔で黙ってうなずいた。
サトはわたしの裸に目をやり、ちょっとだけさわってもいい? とつぶやいた。ひとりごとを言うみたいに。
どうしてそうなるんだと思う。もう少し待てないわけ? わたしはあきれて言った。
待てない。だって何週間もやってないんだよ、オレ。めちゃくちゃたまってんのに、いきなり裸見せられたらたまんないよ……。
たまんない気分になった経験のないわたしには、恋人の姉を前菜にしたがる相手の気持ちがさっぱりわからなかった。
充血した目がわたしを見る。薄い唇がちょっとだけだよとささやく。大きな手が膝の上に乗る。荒くれ者の漁師みたいなぼろぼろの手が、太ももをすべりおりる。突然男の顔つきになったサトを見て、わたしはふいに恋人を思った。
いいよとわたしは答えた。好きにさわれば。あんたが後悔しないなら。
相手の顔つきが一瞬で変わった。
目の中のおかしな光が消え、もとの優しい茶色に戻った。
サトはわたしの体から手を離し、湯船のお湯で顔を二度洗った。
やっぱ、やめとく。
思春期の部活少年のような笑顔をうかべて、サトは言った。
* * *
後日、恋人 [注:現夫] に事の次第を話した。
妹の彼氏と風呂に入るという行為は、彼にとって理解しがたいものだった。わたしの顔を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
「『妹の彼氏は、男じゃない』?」やっと彼は言った。「なんだよそれ。ナオちゃんがそうでも、相手は違う。なんでそんなこともわかんないんだよ?」
サトは犬に近い存在だ。サトだって、こっちを女とも思っていない。そう説明しても相手は納得しないばかりか、言ってることがおかしい、絶対おかしい、妹ちゃんも妹ちゃんだ、なに考えてんだよ二人してと文句を言いはじめた。
売り言葉に買い言葉で、あっという間に口論になった。サトの最後の意思まで否定された気分だった。無防備な性欲が、タフな理性のコントロール下に敷かれた瞬間は感動的ですらあったのに。
ひとかけらの愛さえ持たなくても、女というだけで反応するよう相手はプログラムされている。それを差し引けば、なにひとつ起こらなかったも同然だった。
自分の女がほかの男と二人きりで会おうと屁とも思わないくせに、ほかの男と会いながら自分のことを思っていると知っているくせに、今さらなにに腹を立てるのかと思う。妹の彼氏と風呂に入っただけなのに。
「ねえ、もしかして嫉妬してる?」
彼が黙った。答えるかわりに、人差し指一本でわたしを呼ぶ。飼い猫を呼ぶみたいな仕草にまた腹が立ったけれど、一万歩譲って彼の膝の上にすわった。
ほんとうは興奮したんじゃないの。
してないよ。
彼の手が服の中に入ってくる。すべすべの長い指が、背中に触れる。
それはまさしく、ほんものの人間の指だった。わたしはびっくりして相手の顔を見つめる。
なんか、ぜんぜんちがうんだけど。
じゃなきゃ困る。
やっぱりサトは大型犬だった。恋人以外の男の指は、じっさいのところ、ひとつのこらず肉球なのだ。肌でそれを思い知らされた衝撃を、わたしは言葉にできなかった。
それを知るために、人間の指を持つ男がひとりしかいないと知るためにサトとの経験が必要だったと、今ならもっともらしい言いわけができるのに、と思う。