雑記ノートが10冊を超えた。
「雑記ノート」はなんでも書くノートで、人に言えないことやブログで書けないことを吐き出すゲボだ。まいにち3〜4ページぶんの泣きごとを書いて、そろそろ200日になる。
600ページもいったい何を書いたんだろう。
読み返すつもりで書いてないし、実際読み返していない。ゲボを読んでもしょうがないし、字がきたなすぎて何書いてんだかわからない。
もちろん効果はあった (じゃなきゃやってない)。
150日くらいまでは、心が整ってスッキリする感覚があった。
そういうめんどくさい方法でしか、心の奥底とか無意識に気づけない側面はたしかにあると思う。
ふだんの思考の、下敷きになっている価値観、無意識。ノートにつらつら書いていると、そういったものがうっすら見えてくる。
自分の考えていることは意外とわからない。内省する時間もとれないとあっては、表面的で散漫な感情にしか気づけないかもしれない。
夜ごと崩れる土のうを、毎朝積み上げなおすのは大変だけど、崩れっぱなしにしておくともっとひどくなる。雑記ノートはわたしにとって、精神の堤防を支えるものでもあった。
* * *
だけどすこしずつ、「ほんとうにこれでよいのだろうか」と疑問を持つようになった。
ノートを書き続ける意味を、見いだせなくなっている。
自分にとって「良き習慣」なのか、「ただの惰性」なのかわからない。
何度も言うけれど、雑記ノートはゲボとかウンコに近い。そんなの続けていったい何になるんだろうとかめちゃくちゃ考える。
わたしは余計なことをするのが心底いやで、意味のあることだけで人生を埋めたいと多少本気で考えている。間違った努力をするには、人生はあまりに短い。
人は、いったん判断をくだして行動を開始すると、一貫性を保ちたがる。
雑記ノートの習慣も、まさにそんな状況なのかもしれない。実際どの程度効果があるかは、どうしたって見えづらい。これには効果があるはずだと信じるしかないから、習慣そのものに固執してしまう。
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それでも、雑記ノートは良い習慣だといまも思っている。心を整えるのに感情の外在化は必須だし、たしかに効果もあった。
だけどそれが「今」の自分にマッチしているか判断するのはむずかしい。習慣ははじめるより、終わらせるほうがよっぽど大変だと痛感する。
せっかく続けてきた習慣を終わらせたら、自分の一部が崩れてしまう気がする。そしていちど崩れてしまったら、二度と同じ形には戻らない。
ずっとつづけてきた習慣をいったんやめるって、勇気がいる。
はじめるのは、いつだってはじめられるんだけど。