君は世界に一人だけ

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感じたことと考えたこと

人生やったもん勝ち ~ クリエイター向けの講座を受講して

ちょうど5ヶ月前、クリエイター向けの講座を受講した。

私はクリエイターでも何でもない。受講を申し込むのに、とんでもなく勇気がいった (よく思い切ったと思う、今でも)。

そこで学んだことについて、いまさらまとめておきたいと思います。

めちゃくちゃ怖かった

勇気をふりしぼって参加を申し込んだあとも、当日を思うだけで胃が痛くなった。

クリエイティブ的な自信どころか、人としての資質に対する自信もなかったし、年齢も気がかりで「お前みたいな無能が何しに?」って思われるのが怖かった。

本当は自分で自分を肯定して、ファイオーって鼓舞したかった。でもできない。

クリエイティブになりたいという、ふわふわのカステラみたいな気持ちが踏み潰されて、決定的に傷つくんじゃないかと思った。

個性やクリエイティブが生まれる場所

もちろんそんなのは気鬱に終わった。

"クリエイティブになりたい" と願う人間を笑うような貧しい精神を持った参加者は一人もいなかったし (考えてみたら当たり前だ)、スタートしてしまえば何に怖がっていたかも忘れてしまった。

講座は、具体的なコンテンツ制作の手法を学ぶというより、「5分でアウトプットを作る」をひたすらやり続ける超実践型のワークショップだった。

追いつめられた人間は、誰でも必死で何とかしようとする。"自信がある、ない" とか言ってるひまはない。参加者全員が5分のアウトプットを作成し続けた。

そうして作成された作品は、おどろくほど個性的だった。
極端に短い時間設定が、むしろ自由な発想を生んだのだと思う。

各々の個性が爆発した作品に触れることで、個性やクリエイティブというのはそもそも個人の中にあるんだと気づかされた。 

作品を通して誰かと受け入れあう

最後に二人組で取り組んだエッセイには、とくに衝撃を受けた。

お互いの作品を読み合ったら、主題が見事に真逆だった。私は「骨壺」。相手は「毛布のぬくもりと肌触り」。

純粋に、彼女の精神や作品が素敵だと思ったし、相手も私のエッセイに感じ入ってくれた。
作品を通して誰かと受け入れあう経験は初めてで、それはほんとうに感動的な出来事だった。

私たちは何かぼうっとして、お互いを見つめて「こんなにも違うんですね……」と笑った。おかしくてしょうがなくて、力が抜けた。
そしてはじめて、私は自分のアウトプットが好きだと思えた。

ずっと誰かに承認してもらいたかった

一週間後、現役の作家先生からエッセイのフィードバックを頂戴した。

純粋に、橘さんは唯一無二の個性の塊だなと感じました。

出だしもいい。文体もリズムもいい。

何より一つ一つの言葉の選び方が、ものすごく独特で、世界観を作り上げていてかっこいい。

このような文章が生み出せるのはまさに橘さんだからこそだと思います。


骨壷につまる。その恐怖。その恐怖の微分の果てに「気づいた感情」。
その過程の描き方も素晴らしいですし、読者を「私も似たところがないだろうか」と自己点検に向かわせる。

優れた作品は読者を「語り手」または「作者」に同化させると思いますが、この作品にはまさにその力があります。

ものすごくユニークな視点から始まっているし、描き方も、結論への到達のさせ方も、滑らかですっと相手を説得させてしまうような強さに満ちています。

まさに確固たる「自分」があるからこそ書けるものです。

フィードバックを読んで、私はずっと誰かに承認してもらいたかったんだと気づいた。そして自分でもびっくりするくらい激しく泣いた。

歪んでるんじゃない。人とは違う世界観を持っているだけだ。それは治すべきものじゃないし、治しちゃいけないものなのだ。

頂戴した励ましの効果は今も続いている。単純なおめでたい野郎でよかったって心から思う。

まとめ

講座は私の人生において、たしかな分岐点になりました。

個性とかクリエイティブとか世界観は、もともと自分の中にあること。

自信や勇気は、行動したあとに追いかけてきてくれること。

こうしたことに気づくには、振り返ったときに「よく思い切ったなぁ」って我ながら茫然とするような行動を何回も起こすしかない。そう思います。

年齢とか、失敗とか、余計なあれこれを考えてビビりたおしがちだけど……何かもう、人生やったもん勝ちだなって。

やってもやらなくても誰にも関係ないなら、絶対やったほうがいい。同じアホなら踊らにゃ損々って言うし。できれば踊る側でいたい、死ぬまで。

がんばってこ。ファイオー!