その日は少しナーバスな気分だった。
そんな時は決まってろくなことを考えない。エレベーターを待っている間、ふと「私にとって幸せってなんだろう?」なんて脈絡のない問いがうかんだ。
幸せ。
「幸せ」の感覚を味わってみたくて、いろんなことをためした。
北欧食器を片っ端から買い集めて、断捨離して、ミニマリストになって、梅干をつくって、味噌を仕込んで、砂糖断ちして、ビーガンになって、『アンドプレミアム』読んで、アートを買って、部屋を観葉植物だらけにして、それから……
過去の自分をバカにするつもりはない。バカにできないくらい必死だった。
そうした暮らしを送ることが、幸せになるための最終手段だと思っていた。
私は幸せになりたかった。幸せという感覚を、ちゃんと肌身で感じてみたかった。
エレベーターに乗り込み、コットンのシャツをぱたぱたとあおぐ。汗で服が張りつく。額には汗をかいている。
幸せな人は、こんな状況にあっても幸福感を感じられるんだろうか。そうとは思えない私は、不幸なんだろうか。
幸せってなんだろう。
* * *
玄関のドアを開けると、夫の作業部屋から「おかえり」と声がした。
私は玄関に立って、自動的に部屋から出てくる男の姿を見ていた。
なんでこの人、私が帰ってきたからって部屋からわざわざ出てくるんだろう。
「ねえ」私は彼の目を見て言った。「私のこと、好き?」
とくにおどろいてはいなかった。彼は瞬きをして言った。
「好きだよ」
私は無感動に言った。「どこが好き?」
予想どおり、相手は言葉につまった。体が少しずつ真横に折り曲げられていく。何をどう悩んだらそんな体勢になるんだと思う。
2分が経った。
「信じられない。ひとつも出ないなんて」
靴を脱ぎ、90度に曲がった彼の横を通り抜ける。怒ったふりの妻のあとを、彼はついてきた。
「ないわけじゃないよ」彼は言い訳するみたいに言った。
なんだその言い草。冗談のつもりが、本当に腹が立ってきた。
「好きなところがひとつも出ないなんてありえない。私だったら今の間に100個くらい言ってる。だいたいあなたは……」
「違う。たくさんあって選べないんだよ」
私は口をつぐんだ。
「言ってみなさいよ」、私は挑むように言った。「だったら、そのたくさんとやらを全部言ってみせて」
どうせ何も言えやしないと思っていたら、本当に答えはじめてしまった。
しかし少々ピントがずれている。私の聞きたいのはそういうんじゃない。『音楽の趣味が合う』ってなんだよ。
「かわいい……」どこか遠いところから、妖精の声が聴こえた。
彼は目を丸くして言った。「えっ?」
「かわいい」妖精の声がもう一度くり返した。
彼が眉根を寄せる。「そんなの……今言ったら、言わされてるみたいじゃん」
「かわいい」私は根気強くくり返した。
「かわいいよ」彼はあきらめて言った。「かわいいっていうか、きれいになったよね」
うまい言葉を見つけられずに、私は「よろしい。合格」と頷いた。
何それ。わけがわからないという顔で彼が言った。
ため息をつき、彼が黙ってこちらを見つめる。抱きしめようとする気配を感じとる。
彼が近づいてくる。汗かいてるから、と私は身を引く。だから? と妻をすっぽり抱きしめる。
しばらくじっとお互いの存在をたしかめる。時間がゆるやかに、音もなく過ぎていく。
窓がピンクに染まっている。空が見たいと私は思う。夕陽はあとどのくらいそこにいてくれるだろう。
「あなたにとって、幸せって何?」と私は聞いてみた。
「わかんない?」耳元に口を寄せて、彼がささやいた。
わかんない、と私は答えた。
* * *
その夜、心なしかおかずの種類が多くなった。
テーブルから顔を上げて、彼が不思議そうに言った。
「ナオちゃんって、こんなにわかりやすかったっけ?」
幸せなんて、わかんない。
ずっとわかんないまま、「幸せって何?」って言いながら生きていこうと思う。