万年筆を愛用している。
という大人になりたくて、15年前にすごく無理をして万年筆を買った。
15年ものの万年筆は私の手になじんでいて、とても書きやすい。
最近よく書き物をするようになったのも、この書きやすさがあるおかげだと思う。
(インクがきれてボールペンに持ちかえたら、すぐに手が疲れて集中も途切れてしまった)
万年筆は「育てる」と言うけれど、そんな意識がなくてもふつうに使っていれば勝手に育ってくれる。
頼もしい相棒である。
万年筆を買ったのは、遺品がほしかったから
ずっと万年筆に憧れていた。
すてきだと思う人は、たいてい愛用の万年筆を持っていた。
《愛着があって、もう手放せない。人生の相棒です》。
100円ボールペンしか持たない私は、そんな価値観に憧れた。
だけど万年筆は生活の必需品じゃない。文字を書く機会だって、年に何度もない。
憧れだけで一本のペンに何万円も出す勇気はなかったし、使いこなせる気もしなかった。
万年筆への憧れをつのらせたり、あきらめたり。そんな波を数年くり返して、ある時ふとこう思った。
遺品がほしい。
もしこの瞬間に死んじゃったら、私の遺品は100円ボールペンになるのか。愛用してるわけでも、愛着があるわけでもないのに。
万年筆が私の遺品になるなら、不思議にそう高い買い物じゃないように思えた。
南青山の「書斎館」で万年筆を買う
万年筆は南青山の「書斎館」で購入した。
購入した当時のことをはっきりと覚えている。
高級感漂う店内には、数えきれないほどの万年筆が展示されていた。絶妙な明度で照らされた万年筆はキラキラ輝いていて、筆記用具というよりほとんど芸術品だった。
あらゆる万年筆に目移りして「ああ、あれもすてき。これも」と店内をさまよい歩く私のそばで、黒いスーツに身を包んだ女性店員があれこれと親切に教えてくれた。彼女の丁寧な説明から、万年筆を心から愛していることが伝わってきた。
最終的に絞ったのは「ドルチェビータ (デルタ)」「オプティマ (アウロラ)」「スーベレーン (ペリカン)」。
ド定番3本の中で、苦悩の末にペリカンの「スーベレーン M600」に決めた。
ドルチェビータもオプティマも、美術品のように華やかで美しかった。ただ、ふだん使いするにはどちらもあまりに美しすぎた。
スーべレーンの控えめな佇まいが、小さな生活にしっくりなじむ気がした。
書くのが楽しくなった
万年筆で文字を書くのは楽しい。噂には聞いていたけれど、これほどとは思わなかった。
すべるような書き味。美しいインクの濃淡。書いた瞬間と、乾いたあとの色の変化。ずっと書いていたくなる心地よさ。
万年筆を手に入れて以降、手紙をたくさん書くようになった。両親に書き送り、友達に書き送った。
とにかく何かを書いていたくなる。内容は二の次で、万年筆で文字を書くのが楽しくてたまらなかった。
多忙な時期に書けなくなったり、しばらく放置することもあった。
そうして放置しても、再び使いはじめると「これでなくちゃ」と感じる。数年ぶりに会っても安心できる古い友達みたいな感覚。
いちど万年筆を手にしたら、それ以外の筆記用具に手がのびない。これほど書くのが楽しい道具は、まず他にない。
人生の相棒ってやつ
万年筆にインクを入れたまま、まる1年ほったらかしにしたことがある。
あわてて書斎館へ持ち込んだところ、奇跡的に問題はなかった。「せっかくなので」と無償で洗浄までしていただけた。
(申し訳なくて併設のカフェでコーヒーを頼み、ペリカンのインクを買った)
洗浄後の万年筆が黒いベロア調のトレーにのせられ、私の前に差し出された。はじめて会ったときと同じように。
間接照明に照らされた金色のペン先はキラキラと光っていた。
その姿を見るまで長いこと忘れていた。私のペンが、こんなに美しい佇まいをしていたなんて。
あれほど緊張して使っていたのに。慣れて当たり前になると、持っているものの美しさまで忘れてしまう。
大事に持ちかえり、買ったばかりのインクを万年筆に入れ、試し書きをした。
いちど書き出すと止まらなくなる。「そうそう、この感じ」。
万年筆の小さな魔法だ。
*
万年筆は楽しい。多少の手間がかかるのが、またいとおしい。
少しの手間がかかると、自分の中にある慈しみの心に気づく。
水を替える手間があると知っていて、部屋に花を生けるのと似ている。
調子が悪ければ心配になる。テーブルから落っこちたら泣きそうになる。インクを替えるときはかならず洗ってあげる。
小さな傷も愛嬌だ。新しいのと交換してあげるよと言われても手放さない。たとえぶっ壊れて書けなくなっても、一生手元に置いておく。
そんな一本がそばにある生活は、控えめに言ってけっこう幸せだと思う。