君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

努力よりも大事なこと

最近、勉強が習慣化しました。

勉強と言っても、ビジネス書を読んでメモを取る程度の軽いものです。

遊び半分なレベルでも、勉強は勉強。気分も肯定感も上がって「良い習慣だな~」って思ってました。

ところが、日を追うごとに「自分のいたらなさ」「理想とのギャップ」にとらわれて、苦しさを感じるように。楽しさだけでは取り組めなくなりました。

この負のループから抜け出すには、より大きな努力が必要……ではなく、向上したいと願う自分を認めるのが先だと気づきました。

「向上してから認める」のではなくて、「向上したいなって思う自分をつねに認める」。

実際に成果を出す、あるいは勉強や努力よりも大事な心持ちだと思います。

「もっとやらないと」

Twitterをやるかわりに、勉強的なことをはじめました。

このところアウトプットばかりで、インプットが足りてないなって感じていたので、ちょうどよい習慣になりました。

勉強は楽しいです。新しい発見があるし、向上してる感覚を得られる。肯定感も自然と上がりました。

勉強の習慣は私をいい方向に導いてくれる。そう確信していました。

 

一方で、勉強をはじめると「いかに自分が勉強不足だったか」を思い知らされます。

今までさぼってたぶん、もっと勉強しなくちゃ、ってなる。

やればやるほど、膨大な「やらなくてはいけないこと」が見えてきます。努力している事実より、自分の足りないところばっかが目につく。

いつ成果が出るのか、もしかして無駄になるんじゃないかって不安になりました。

そのうち「越えなければならない山」が目の前にどーんとそびえ立っているのに気がつきました。
へっ? あった? こんな山。頂上、高すぎて見えませんけど、っていう。

それでも山があるなら越えなくちゃいけない。もっと真剣にやらないとって、軽く自分を追い込んでいきました。

大事なのは、向上したいと願う自分を認めること

正気に戻ったのは、つい数日前です。

夕方急にお腹が痛くなって、横になりました。

そしたら「寝てる場合じゃない。体調がわるいのは言い訳にならない」って考えばかりが浮かんで、お腹が痛くてまっすぐにも立てないのに、勉強を再開させてしまいました。

痛いから、本なんてろくに読めない。万年筆だって脂汗をかきながら握ってます。

「いててて……」ってうめいて、はたと正気に戻りました。

私、何やってんのって。

 

今まで、努力なんか当たり前、向上した時にだけ認めるべきと思っていました。

でも実際にどのくらい自分が向上しているかなんて、定量的に計れません。
もし計れたところで、その数値にどれだけの価値があるのか。

そんな数値より、少しでも向上しようと毎日机に向かっていることの方がよっぽど大事なはずです。

向上したら認める、じゃダメだ。「向上したいと願う自分」を認めないかぎり、どんなに努力しても苦しいだけと気づきました。

なぜなら努力には終わりがないから。

ぎりぎりまで努力しないと自分の価値を認められない、なんてスタンスでいたら一生満たされない。そんなふうに生きていくのはごめんです。

本当の意味で向上するために

勉強をはじめて、肯定感は確実に上がりました。肯定感を感じるには、とにかく努力するのがいちばんの近道だと確信したほどです。

だけどもし何か予期せぬ事故が起こって、今と同じ努力を続けられなくなったら?

努力の量で自分を認めるかを判定していたら、いつまでも満足できずに「私はダメだ」ってレッテルを貼ってしまいます。そんなんぜったいおかしいし、悲しい。

山を越えたらハッピーエンド、じゃない。山はぼんぼん生え続ける。死ぬまで終わらないんです。

だから、向上したいと願う自分をまずは認める。本当の意味で向上するために、おろそかにしてはいけない心持ちだと思います。

越えるべき山のデカさを目分量で計るんじゃなくて、自分にとっての正しい努力は何かを考える。それから目の前の小さな課題に集中する。

頂上を見上げて打ちひしがれていても、何も生み出せません。
自分を認めて鼓舞しながら、日々の努力を積み重ねていきたいです。

 

* * *

 

越えるべき山が見つかるのって、考えようによっては幸せです。生きていく目的を与えてくれるから。ただ苦しむだけではもったいないですよね。

一時は負のループにハマっちゃったけど (あぶなかった)、ひとまず体勢を立て直せました。

当たり前で大事なことほど簡単に忘れてしまいます。
忘れそうになったら、またエントリに書きたいと思います。