君は世界に一人だけ

君は世界に一人だけ

感じたことと考えたこと

感受性の低さと書くことについて

外界からの刺激を深く感じ取り、心に受けとめる能力。 「 -が鋭い」 「 -が豊かだ」

感受性(かんじゅせい)とは何? Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E6%84%9F%E5%8F%97%E6%80%A7


私の感受性は決して高くない。

なぜそう感じるかというと、他の人よりも何かを"受け取る"スペースが極端に小さいのではないかと思える体験を、事あるごとにしてきたからだ。

例えばライブを観たあとの飲み会。そこにいる全員が私よりずっと内容を刻銘に覚えていて、それについて論じている輪に入れない、とか。
例えば誰かのブログでライブの感想を読むと、自分はその半分も覚えていないし、そんな素晴らしい感想を抱けていないと気づかされる、とか。

彼女たちの熱量を目の当たりにすると、「あれ?私ライブ行った?」という気持ちにさせられる。がっかりするし、情けないし、落ち込む。
思えば東京ドームに巨人戦を観に行ったときだって、トイレへ行っていて阿部のホームランを見逃した。私はそうやって常に、いちばんの見所、いちばん大切な場面、受け取るべき感動を見逃し、受け取りそこねてきた。

だから今までなにかにつけ「感想」を書くのが苦手だった。自分が、表面上の内容しか受け取れないと知っているから。スイカの中身が実は赤いなんて気づきもせず、「スイカは緑である」とドヤ顔で語るのが怖かった。

では「感受性の低い人間の言葉は価値が低い」のだろうか。世の中のあらゆる言葉は、感受性の高い人間が発信したものだけであるべきだろうか?
もちろんそんなワケはない。

なぜならライブ後、私と同じように「ぜんぜん受け取れない」感想があったとしたら、私は絶対に救われていたと思うから。ライブ会場にいた何万人もの人間が、すべからく同じ感想を持つわけはないと、今は思うから。
何らかの理由で「100%最高だった」って言えない、私のようなひねくれものだって本当はいるはず。ただ、最高だったというコメントにけちをつけるつもりもないし、盛り下げたくないし、嫌われたくないし、自分だって"受け取った"と感じていたいからひとまず同調する。
でもそんなことを繰り返していると、やがて自分が本当はどう感じ、どう考えたのか分からなくなってくる。そうして少しずつ、自分から言葉が消えていく。

感受性が低かろうが高かろうが、私は私の感じたことを書きたい。何も分かってないくせに、ドヤ顔で底の浅いことを言ってたとしても別にかまわない。私は人を傷つけるためじゃなく、褒めてもらうためでもなく、ただ単純に感じたことを素直に書きたい。自分なりの言葉で。

私は、一人ひとりの言葉には価値があると信じている。もっと色んな感想があって良い。むしろそうあるべきだ。
共感よりずっと大切なのは、純度の高い主観、「自分はどう感じたか」だ。

ファン同士が共有しなければならない思いがあるとするなら、常に「次を期待している」前向きな心持ちだけだと思う。